アヴェンジャーが浜松FORCEに来るし、何も調整してないのに奇跡的に見に行ける状況だったので行こうかどうしようか非常に悩んだ。

 悩んだ末に、今回はやめといた。

 浜松に来ることを知ったのも最近だったし、それでこんなにうまくいくんだからこれはもう神様が行けと言っているんだと思っていたけど、うーん。

 avengers in sci-fi の皆さんには、また浜松に来ていただきたい。
 あー畜生。
 絶対凄いのになあ。

 ああ、是非また来ていただきたい!

 その時こそはスッと行ける状態でありますように!
 ゆるキャラも、やはりふなっしーを見ていると、それ以外の喋らないキャラクター、動かないキャラクターたちの限界を感じざるを得ない。

 見た目のユルさ、可愛さから始まり、仕草や外見の特異さ、奇抜さで差別化が図られてきたが、発信力という点では喋れて動けるキャラクターが圧倒的だ。
 喋れれば良いというわけでももちろんないだろう、ふなっしーなんかはテレビで見ていても相当頭が切れる、回転が早く知的な内面があると感じられる。
 彼ほどの発信力はなくとも、お飾りや置物以上の、コミュニケーション能力を持たせる有用性はあると思う。いちいち付き添いをつけなくてもいいだろうし、見た目以外の個性や、活動の可能性も広がりそうだ。

 例えば知名度の低い芸人や声優(声優志望の人間)と契約をして入ってもらうとか、それに準ずるような(プロ以外も含めた)存在をアクターとして起用する、とか。

 情報発信や振興策としてどの程度の活躍を期待するかによってやり方も変わってくるとは思うけど、ゆるキャラの在り方というものも考える余地は色々あると思う。

 個人がゆるキャラに扮して活動して知名度を上げ、地域や会社が後から契約をするというパターンも増えてくるかもしれない。 


 スマホ事業とゲーム関連事業を扱う子会社があるんだから、なぜそれらを融合させようとしないのだろう。
 なぜ据え置き型のハード、ゲーム専用機、にこだわるのだろうか。
 時代の潮流というのは移ろうし、突端でエポックメイキングを起こして大きな市場を作る、または市場を席巻する、ということが必要なんだけど、今は後追い後追いばかりだ。
 ゲーム専用機の価値を否定するつもりはないし、それらを求めている人たちがいることもわかる。業界からしたら、そういう人達の熱心なレスポンスが目や耳に入りやすいだろうけど、もっと大局的な視点から見てみないと、とも思う。
 ハロープロジェクトにタンポポというグループがあって、そのグループの楽曲に「たんぽぽ」というセルフタイトルの曲があった。
 学生時代に(もうずいぶん前のことだ……)テレビで流れているのを聴いて、いい曲だなあなどと思ったことがある。ただ、買いはしなかった。金がなかったから。

 その、「いい曲だなあ」という印象がそこそこ強かったのだろうと思う、今日なぜだかわからないけど不意に思い出した。たぶんネットで加護亜依の記事を見て、その加護亜依のプロフィールにタンポポが載ってたからだと思う。
 ネットというものは便利なもので、色々調べると聴く機会を持てるものである。久々に耳にしたその曲は、やはり決して悪くない、というか、どちらかというと好きな部類の曲だった。
 無茶苦茶良い、という感じではない、何というか、スマッシュヒット、というか。スタメンじゃなくて控えなんだけど、スーパーサブ、というか。

 若かりし頃に聴いた曲って、何でも新鮮に感じるせいか何でもそれなりに良いなと思うんだけど、後年改めて聴いてみるといまいちだったりすることも多い。
 そういう意味では悪くなかった。

 そういえば国分太一のラジオ番組を聴く機会があって、その中でTOKIOの曲とかも流れるんだけど、悪くないんだよね。これが。

 結局のところ、音楽って言うものの好みは感覚に由来しているところが大きいと思う。アイドルだから、とか、商法が、とか、音楽に取り組む精神が、とか、佇まいとか、そう言う外縁で取捨選択することもあるだろうけど、結局聴いてて気持ちいいかどうか、という部分が個人的には重要だと思う。

 たとえばミッシェルガンエレファントなんてROCKファンには神聖視されているというか、一目置かれているような存在かもしれないけれど、個人的に彼らの曲のほとんど(知ってる数少ないけど)は聴いててあまり楽しくない。
「世界の終わり」ぐらいかなぁ、良いなと思うのは。
 ブランキージェットシティーだって、その存在感たるや、確かにかっこいいと思うけど、曲に関してはやはりいまいちピンと来ない。
 矢沢永吉?

 良さを見いだそうと好きでもないものを聴き続けるのは苦行だ。苦行からは心の平安は見いだせない。苦行から悟りは生まれない。と、仏陀は言ったような言わなかったような。
 好きこそものの上手なれとかいうし、実際そうなのだと思う。
 1万時間の法則みたいなことを聞くと、やっぱり一つの分野、物事に集中してその道を極める方が、その後なんやかんやで別の分野、物事に応用も利いて、なんやかんやで成功するのかなぁ、なんて気もする。

 しかもまあそのなんやかんやで道を極めるというのも、ある種楽しんでいるというか、無心というか、純粋にその道を突っ走っている方がいいのかもしれない。

 自分の場合、邪念、雑念ばかりが心の奥底で渦巻いていて、それに振り回されている感じで、一つのことに集中ということもできないし、していても何か、別のところを見ながら走っているようなそんな気もしてくるのである。

 好きだったり興味があってそれに取り組んでいるつもりが、やっているうちに本当にこれ純粋に興味とか好きとかだけでやっているのか? という疑念が湧き上がってきて、よくわからなくなる。
 没入するという感覚が久しくないのである。
「宇宙は無数にあるのか」を読んでるときはそんな感じだったかもしれない。宇宙に関することは昔から好きだったのだ。
 最近昔みたいに、何もかも忘れて無心にそれをただ楽しむということがなかなかできていない。どこかで焦っている。時間がない、みたいな。それをどこでどう応用するか、みたいなことばっかり考えている気がする。
 でも、応用するには先にも言ったとおり、極めるくらい多くのことを頭に突っ込まないと、なかなかうまくは使えないものである。

 少子高齢化とか、サービス業忌避みたいな部分もあるかもしれないけれど、なんというか、単純にサービス業自体が増えすぎている気がするんだ。
 コンビニなんかとってみても、あれ、24時間営業だよ?
 24時間営業している店がそこらじゅうにあるんだから。
 そりゃ人足りないって。


 アンダーワールドの曲に「two months off」というナンバーがあるけど、俺は2か月くらいずっと眠っていたい。2か月じゃなくていい、2,3日でいいからずっと寝てたい。

 不公平だよなぁ。世の中数時間寝られれば全然平気で活動できる人がいる一方で、俺は全くそれじゃあ足りない。

 まああんまり精力的過ぎても、それはそれで早死にや病気につながりそうだけど……。

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 稀勢の里が早くも2敗か。
 関脇から上がれない豪栄道といい、大関から上がれない稀勢の里といい、あと一歩殻が破れない。俺がこんなこと書ける身分ではないけれど、もどかしい。
 琴奨菊は全勝でターンか。多分カド番脱出して、ほっとしてこの後負けるんだろうなぁ(苦笑) いずれにしても2場所3場所続けて好調を維持できない人だからなぁ。

 遠藤に関してはいまさらこんなこと書くと後出しジャンケンになるから……、まあ参考記録程度に。

 彼を始めてみたのは多分学生時代のアマチュア横綱を決める大会だったと思う。テレビでやっていて、偶然見たのだと思う。この辺は本当に記憶がはっきりしないけど、その大会の彼が優勝した試合で、当初自分は対戦相手の方が勝つと思って見ていた。というのも、下半身に力があって、しっかり足で地面をつかんでいたように見えたからだ。
 一方の遠藤は、なんだかふんわりしていたような印象がある。これはつまり体が柔らかいとか、フットワークの軽さだとか、そういうことなんだと思うけど、自分は下半身がどっしりと極まっている方が、他のスポーツにおいても好印象を受けるのである。
 かくして遠藤が勝利して、自分は釈然としないままテレビの前にいた気がする。

 その後プロの大相撲で異例のスピード出世を上げている人間がいると聞いた。それが遠藤だった。
 記憶が定かでなかったが、かつてテレビで見ていたと思われたため親近感を持ち、新聞の小さな記事欄に載るたびに気にかけていた。
 しかし実際彼が幕内昇進を決めたころ、テレビの映像でようやく再び目にすることになるのだけど、やはりその時の印象もなんだかいまいちだったような気がする。これまで書いてきたように腰が高く下半身がふわりとしているように見えたのだ。物の数秒ほどの映像だったけれど、これはこれまでのような快進撃は難しいのではないか、と思ったのを覚えている。
 現在、やはりこれまでの勢いが削がれ、番付で停滞気味だけど、そもそも彼の年齢などを考えれば十分とも言えるような気がするのも事実。壁にぶつかるのは当然だし、今後のことを考えると多少そういった難しさに触れていたほうがいいとも思える。

 いずれにしても遠藤が大相撲人気回復に寄与しているのは間違いないだろう。
 八百長問題があった直後の、空席だらけの会場は本当に見るに堪えないものがった。
 NHKの大相撲中継の演出で、大一番になると各力士に寄った映像から一気に引いて会場全体を映す手法があったのだけど、引いた瞬間ガラガラの会場が露わになって痛々しいことこの上なかった。
 そう考えると、歓声と笑顔が会場を埋め尽くしてしている今の状況というのは本当に素晴らしいことだと感じる。
 先場所の稀勢の里はこれまでと何か少し違って見えた。今までも彼は場所ごとに少しずつ成長をしてきたのだけど、それまでと明らかに質の違う、一つ上の段へと足をかけたように見えたのだ。

 それは千秋楽の取組に見て取れた。
 終盤、白鵬との直接対決に敗れ、稀勢の里2敗、白鵬1敗で迎えた最後の取組。先に試合のある稀勢の里は、自身が負ければその時点で白鵬の優勝が決まってしまうため、絶対に負けられなかった。その取り組みで、彼は見事に勝って見せた。
 白鵬も勝ったため、結局優勝決定戦には至らなかったが、最後まで可能性を残したという点で非常に大きな勝利だった。

 白鵬に負けた時点でまだ数試合残っていたが、それ以降1敗でもすれば、白鵬の安定感からするとほぼ優勝は絶望的な状況だった。これまでの稀勢の里は、その負けられない状況下で取りこぼしてしまうことが多かった。だから負けなかったということに、大きな成長を見て取れたのだ。
 彼は終盤にこう言っていた。
「普段通りに相撲を取れている」
 これは優勝して横綱昇進を決めた鶴竜が言っていた「普段通りにやって勝てていることが大きい」という趣旨の発言と似ている。これはおそらく、稀勢の里も彼の発言に何か感じるものがったのだろう。
 今まで稀勢の里は重要な試合になると特に、普段見られないような気合を入れて臨む姿が見られた。綱取りの期待がかかった初場所は、それが最初から感じられた。しかし結果は格下に取りこぼし、中盤で怪我、その後負け越して休場すると、翌場所も完治しない体で精彩を欠いていた。

 迎えた本場所、本来の持ち味である粘り強い下半身とどっしりとした腰で相手の押し引きを封じ込め、冷静に、力強く土俵の外に追いやる彼の姿がそこにあった。
 怪我の癒えた体、そして、強くなったメンタリティ。それはこれまで欠けていた何かが埋まったような、大きな期待を抱かせる姿だった。

 一歩一歩の成長だった。
 大関としては抜群の安定感を誇り、先に横綱に出世した鶴竜よりもアベレージとしての成績は良かったように思う。しかし、優勝ができない。
 チャンスはあったが、あと一歩届かない。毎場所必ず何かしらの課題を突き付けられた。それを一つ一つ、不器用に、克服しようと取り組んだ。
 悔しかったであろう自身の失速と、鶴竜の横綱昇進。それらの逆境からエッセンスを吸い取り、成長へと繋げた。不器用だが、これが稀勢の里。一つ一つ成長する。これまでの足踏みが、今の彼を作っているのだ。

 怪我がちの琴奨菊、柔らかく技術はあるが、腰や下半身が決まらない遠藤。豪栄道にしても、それ以外の日本人力士を見ても、稀勢の里との差は大きい。
 白鵬の言動も、以前と微妙に違ってきているように思う。稀勢の里の力を認めている、という点では同じだが、以前は彼を気遣う余裕を見せていた。今はどことなく、彼への対抗心やプライドを垣間見せているような気がする。真剣になってきているのだ。
 今、横綱に昇進できる日本人力士は、稀勢の里以外見当たらない。
 このまままたひとつづつ成長を続けていけば、白鵬と優勝を分け合う、本当に強い日本人力士の土俵に立っている姿を見られる日も、そう遠くはないだろう。

体がダルビッシュ。
こんなにダルシムだとほんと嫌になっちゃうよね。
皆さんはこんなダルメシアンな時はいかがおすごしでしょうか?
わんわん
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物事を行う時の推進力は一種の達成感や達成感への期待だと思うんだけど、自分にはそれがほとんどない。好奇心はあるが、楽しいという推進剤がないので持続しない。
これをどううまく出すか。

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 自分はラルクアンシエルのファンというわけではない。
 しかし学生時代に当時の友人がかなりはまっていて、その影響でラルクアンシエルが周囲で広がっていたということもあり、思い出として彼らにはある種特別な感情があるというか、特別な位置づけというか。
 単純に楽曲的にも嫌いではない。

 ただ、ライブDVDなんて、基本的にはファンしか買わないようなものだと思う。ファンでもない自分がなぜ買ったかというと、YOUTUBEに動画がアップされていて、それを見たから。そのライブが素晴らしかったからだ。

 これはYOUTUBUの使い方の一つではあると思う。
 黙っていてもファンは買うようなものだけど、ファン以外の人間は買わない。そういうものに接する機会があると、ファン以外でも買う可能性が出てくる。

 もちろん、UPされている動画で十分、という人間もいるだろうから、難しいところだろうけど。
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 野球について。

 今年はスワローズが優勝するから、優勝する年くらいテレビ観戦をいっぱいしたいと思ってスカパーに入ろうかと思っているんだけど、環境が整わない。

 しかし真中さんはすごいね。
 雄平や荒木や比屋根や松井や西田や中村や……二軍にいた若手打者をぐんぐん打てるようにして、二軍監督だった昨年は優勝。今年は一軍コーチとなって開幕からずっと打線の調子はいい。
 杉村コーチもいいんだろうけど。
 問題は投手だけど、ここのところ安定してきている。
 八木、木谷、ナーブソン、古野、石川。正直まだまだかなり不安のある面子だが、八木は以前の投球数の多さが不思議なくらい影を潜めているし、木谷も安定してきている。
 古野は失敗してもコーチ陣の評価が高いのか我慢して起用されて結果を出してきているし、ナーブソンも徐々に数字を改善させてきている。

 カープはそろそろ息切れするころだから、全然まだまだこれから。
 スワローズの優勝をゆったり眺めていたいね。

 にしても、どこの球団もなんだか打線が活発のような気がする。
 一昨年よりも飛ぶボールであるとはいえ、統一球以前よりは飛ばないはず。
 4月に反発係数が上がっていたというが、規定値のボールになっても変わらない、むしろますます活発になっている気がする。




 鶴竜が横綱昇進を決めた場所で言っていたのが、
「普段通りやって勝てているのが大きい。もし普段より力を入れて優勝しても、横綱になってから続かないと思う」
 みたいなことを言っていて、ああそうだなぁ、まさにそうだなあと納得した記憶がある。

 普段通りやれるというのは大きいのだ。
 もちろん絶対的な力量が大きいほうがいいに決まっている。もし全員が普段通りに試合に臨めた場合、力量の大きいほうが勝つわけだし、力量に大きな差があれば、普段通りにやれたとしても勝てない場合もある。
 しかし実際にはみんななかなか普段通りに物事に臨めなかったりする。しかもここ一番という試合ほど心が乱れる。そして、心が乱れると、思いもよらないミスを犯して、悪い結果につながることになる。

 普段通りやれていれば、相手が勝手に自分よりも力量を落としてくれる可能性があるし、ミスを犯す確率も抑えることができる。

 しかしではそれをどうやって実現するかというとなかなか難しい。

 プロスポーツでは、それを型に求めたりする。
 野球で言えば、バッティングフォームや投球フォーム、相撲で言えば、例えば組み合う直前の蹲踞の状態と言える。
 自分の体と心に合ったしっくりくるフォームを見つけていれば、その体勢に入ることで、自動的に心が整理され、落ち着けるようになる。
 ルーティーンとかもそうだろう。

 ただ、ではビジネスマンが型を、と言っても、なかなかイメージしづらい。普段から姿勢や歩き方などでそれを見つけておくというのも手だろうけど、何か特殊な動きを必要とするわけでもなく、心を平静にする姿勢というのも得づらい。
 姿勢を整えるというのは間違った考えではないと思う。これも重要な要素なのだけど、それだけでは安定した心理状態を確保できない人も多いと思う。

 安定した心理状態を得るには、それを担保するバックグラウンドが必要になってくるのかもしれない。
 落合博満氏の言う「体技心」の順番、のような。徹底して土台作りをする、徹底して勉強して知識的土台を作っておく、それによって心の強さ(自信)がついてくる。という具合の。
 で、もう一匙、「大丈夫だろう」という気分に入るスイッチの入れ方を見つける作業が必要になってくるのかもしれない。
  



読了したのでブクログに登録して感想を書きました。
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携帯電話会社からノートパソコンを出す。
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データの保存は基本クラウド(オンラインストレージ)。
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金メダルを取られたとか、2連覇を妨害する計画があったとか、あいつら病気なんじゃないのか。国民をあげて統合失調症にかかってんのか?


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