ブクログの方へ感想を書きました。
「野村ノート」を2回通り読み終えました。
 ので、まとめをば、記しておきます。 

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 この本の執筆前に、おそらく編集者は野村監督とこういう話をしたのではないだろうか。
 野球の話をベースに、野球だけでなく、一般企業の管理職にも通じる一般論を、野村ノートと実体験を基に書き記して欲しい。と。
 もちろんもっと細かく詰めているのだろうが、野村ノートの要所や、野村監督の野球観、人生観の重要点をかいつまんで記すという方向性だろう。
 編集者が出来上がった文章を、あとから章や項目に分けているのだと思う。
 幾つかの章からなっているが、章のタイトルとその内容が、必ずしも一致しないところもあるから、そのように見えた。

 本書の内容は主に二つの話に分かれる。一つは野球における実践的な戦法や考え方である。
 例えば打者をA,B,C,Dの4タイプに分けて、バッテリーからすれば打ち取る方法や、打者ならばそれを応用する方法を提示する。
 ギャンブルスタート、ギャンブルダブルスチールなどの弱者の戦法や、打者中心・投手中心・状況中心という3通りの配球、変化球やその組み合わせの役割、継投や起用などの用兵術、データを基にした戦い方などである。
 そしてこれらの土台になっているのが、もう一つの主要な話題である「無形の力」である。

 無形の力とは要するに、人間の内面、心理的な力のことだ。考え方とも言える。
 本の中では「知らないよりも知っていた方が良い」「理をもって戦う」「原理原則」「先入観は罪、固定観念は悪」「意識付け」「思考が人生を決定する」という言葉が繰り返し使われる。
 冒頭の「はじめに」で書かれている言葉に次のような物がある。

「(前略)この感謝こそが人間が成長していくうえでもっとも大切なものである、というのが私の持論である。そして、そうした成長の集大成がチームとしての発展に繋がっていく」

 つまりは、ただ技術的に秀でている、あるいは素質を持っていると言うだけでは一流とは言えないし、尊敬されない。その後の人生においてもその人は可能性を狭めてしまうし、場合によっては集団にとって悪影響を及ぼす人となってしまうことさえあるのだと言う。
 不満のない人間などいない。しかしそれを堪える抑制術は人間教育が出来ていないと持ち得ないものだという。それが出来ていなければ、吐き出された不満がチームの歯車に支障を来すことになる。
 物事を為すには何事もまず、「人づくり」が重要なのだ。

 人づくりにとって重要なのは、人として生きる、ということを教えることだ。人と人の間で生きるのが人間であり、自分を評価するのは他人であると気付かせること。
 人生と仕事は切っても切り離せない関係である。仕事を通じて成長と進歩があり、人間形成が為される。逆に言えば人格が仕事を左右することにもなる。
 そう言ったことを、いかに「気付かせるか」が大切なのである。

 野村監督は自身の経験を基に、いかに「気付かせるか」を記している。
 手を代え品を代え言葉を代え、しつこく迫り、時には突き放して伝える。その選手の資質と性格を見極め、どうすればその選手が伸びるかと言うことを考える。
 その眼差しは温かい。
 そうやって「気付いた」人間が集まり、自分自身で考え、自分の役割を理解した集団となって、ようやく不確定要素やミスを乗り越えて物事を成し得ていけるのである。

 監督の指導もまた、自身が学び、悩み、磨き上げてきた人生哲学から来るものである。
 才は学より生まれる。
 一流の選手となり、一流の人間となるためには、学ばなければならない。悩まなければならない。そして人格を磨き上げることで、初めて人の上に立てる人間となるのである。

松のひとりごと

2009年8月25日 読書
 単行本 朝日新聞社 発売:2003/11/14 1,470円

 松たか子のフォト・エッセイ集。
 彼女が24~26歳頃に雑誌に掲載された物を集めた作品。
 とりあえずざっと読み切りました。

 人間一人一人が何を考えているかはわからないので、彼女が特別なのかどうかはわかりませんが、ただ芸能一家に生まれ、育ち、役者として、歌手として活動されている、感性の片鱗を窺うことは出来ました。
 彼女の実際の気質はどうなのかはわかりませんが、このエッセイ集を読んでいて感じるのは、どこか一歩引いて物事を見ているという、彼女の立ち位置。

「末っ子特有の性質なのか、環境のせいなのか、いつしか私は(自分で何とかしなきゃ)という感覚を身に着けた。甘えるのが下手になった。」

 と記しているように、自分自身と向き合う、自分自身で考える、という技を、身に着けていったのかもしれません。その事によって、物事を一面的に見ず、色々な解釈をすることが出来るようになってきたのかもしれません。

 ただし彼女は役者ですから、基本的に物事を見るとき、役者としての目線で見ているように見えました。
 テレビのお笑い番組で芸人がどのようにして人を笑わせるか、野球選手の勝利の表情から覗える心情、街角を歩く少女達の内面、そう言ったことを自分なりに感じとろうとしているように見えました。
 その内面に踏み込んでいこうとする姿勢や共感、影響される部分は、一歩引いて物事を見ている彼女の立ち位置と記した先程の文章とは相反するように思えるかもしれません。
 その点に関しては、彼女の唯一の趣味(と自分で言っている)写真が関係してくるのではないでしょうか。
「真剣な遊び」とも言い換えているこの趣味。

「目で見た風景を、改めて一枚の写真として見直すと、色々なイメージが広がる。物言わぬ写真が、私を刺激し、想像を膨らませる。そのとき自分が何を見ていたか、どんな風に見つめていたか……。そのことと向き合うのが面白い。
 人もまた、一人で自分を知るのは困難なことかもしれない。人と関わり、その形に自分自身の姿が映し出され、自分を知っていく。
 写真を撮るとき、ファインダーを覗いていると、対象となるものと一対一の関係になる。その集中した感じが、個人的な空間の雰囲気が、好きなのかもしれない。或いは、そこにある微妙な距離感が好きなのかもしれない。」

 写真というものを日常よく使っているようですが、自分の目でものを見るときも、ファインダーを覗くようにして距離感を計り、窺っているのかもしれません。

 写真自体はどうかというと。素晴らしいとは思えませんでした。正直な話ですが。
 日常で彼女の心に留まったものを撮影しているので、彼女自身には思い入れのあるものですが、自分としてはとりとめのない作品が多かったです。良く言えば、素朴な良さはありますが。
 ただそんな中でも幾つか自分でも気に入ったものはありました。
 ビルの窓に映った夕焼けのアップ。これは、色彩が豊かで、ルービックキューブのようにも見えました。また、共演した役者さんの豊かな表情を抑えた写真。それに、最後、犬たちの写真。

 犬間関係というエッセイで、実家で飼っている犬たちの微妙な関係を記していました。
 3匹いる内の2匹が兄弟で、もう一匹がその2匹の仲間に入ろうとしても、なかなか入れず、終いに背中に孤独な陰を漂わすようになった、という話です。
 それを象徴的に捉えた写真がありました。ベッドで寝ている3匹ですが、兄弟は比較的近いところで寝ているのに、もう一匹は間を空けて一匹で寝ているのです。これには何だか、切ないなあと思ってしまいました。
 とりあえず先日読み終えました。まず触れておきたいのは、本書が色々と思い入れの深い作品になった、と言うことです。
 と言うのも、最初から最後まで多色ボールペンで線を引きながら読み終えたのもこの本が初めてですし、途中から本の上の余白に要約を入れ始めるという試みもしましたし、「齋藤孝の速読塾」の一部方法論を後半部分から用いたりもしたからです。
 要するに読書における様々な工夫、試みを、読み始めた当初から読み終わるまで次々導入し実行したと言うことです。
 間違いなく読むスピードや理解力は以前よりも上がったと思います。

 一方、本書に関しては、そのような変遷を辿ったため、最初の方と最後の方では理解に差があるかもしれません。また、理解力が上がったと言っても、そもそもの能力がしれているので、あまりエッセンスを読み取れていないかもしれません。
 つまりうまく紹介できていないかもしれませんが、その点はあしからず。

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 著者は日本には固有の伝統的な身体感覚が脈々と受け継がれてきていたとする。それらは日常生活における各行為の中で、あるいは年長者からの指導によって技術として身につけ、そしてまた次代に受け継がれていったと。
 ところがこの身体文化の断絶が唐突に起こることとなる。
 敗戦のショック。文明化に伴う生活様式の変化。そして、青年期にカウンターカルチャーを経験した現在の60前後の親たちが、自分の子供達に躾けることをしなくなったことが大きな要因となったと述べる。

 普段これらの感覚という物は意識されにくい。数百年間にわたって引き継がれ、培われてきた身体の技術や感覚が失われつつあることに危機感を抱いた著者はそれらを「文化」として認識しやすい形として提示した。

 著者の提示する(衰退傾向にある)日本の身体文化の中心軸は「腰ハラ文化」と「息の文化」の主に二点。1~4章あたりまではそれがかつての日本人に根付いていたと言うことと、その事の意義、重要性を説明している。
 そして5章で身体と精神の関係、終章で現時点から未来へ向けての具体的な提言を記して締めくくっている。

 日本ではとりわけ腰や腹(丹田)を重要視した言葉が多いとする。それは腰やハラを重要視していた事から来るのだろうと言っている。実際の武道や芸道に於いても腰ハラの需要性を強調しているらしい。
 腰やハラの構えは身体的状態感を生む。身体的状態感とはその構えによって生まれる気分や心の状態のことだ。そこが正しく決まっていれば、腰ハラはどっしりとし、力強さが漲る。と同時に上半身の力が抜ける「上虚下実」の状態となる。
 これはつまり、「腰ハラ文化」とは、「中心感覚」として自己の存在感を確かめる場所として機能し、拠り所となる感覚のことを言う。

 また一方で、「息の文化」は身体と精神、自己と他者、あるいは自己と世界を繋ぐ「距離感覚」(空間感覚)を養う点で重要としている。
 その場の空気と身体の状態感とは連関している。身体が息苦しいのに心理的に楽しんでいると言うことは考えられない。息は一種のセンサーなのである。
 逆に言えば、息を変えることで心身に変化を与えることも出来るのである。堪え忍ばなければならないときに、息を溜めることで、踏ん張りが聞くようになったりする。
 息とはコミュニケーションである。相手の呼吸を感じ取り、積極的受動性でもって相手と呼吸を合わせる。これが両者のやり取りや、自己の心身のやり取りを円滑にする。
 また、呼吸とはコツであって、世の中のあらゆる現象の押し引きも、この呼吸の感覚が重要となる。
 
 これらの感覚を昔の日本人が重要視していたことは「からだ言葉」にも表れている。からだの部位やからだを使った行為を言葉として表現しているのが「からだ言葉」だ。
「背負う」「腑に落ちる」「清濁併せ呑む」と言った言葉などに代表される。
 著者は「練る」「研ぐ」「絞る」「背負う」など、社会の変化につれて衰退傾向にあるからだ言葉を上げる。
 こういったからだ言葉はかつて、実際に自身の体で感じた感覚を言葉のニュアンスの一部として使っていた。ところが現在は身体文化が軽んじられ、からだの重要性が低下している。と言うことは、それに伴って「からだ言葉」に含まれる実際的なニュアンスも当然薄くなる。
 例えば「責任を背負う」と言うときの背負う。これはかつてのようにかなりの重量の荷物を長時間・長距離、背負い歩いていた時というのは、身体技術によって体で重さを受け止め、踏ん張って(あるいは安定した状態感で)歩いていたという実感があった。
「責任を背負う」という言葉を使うときの表現や決意にはそう言った培われた感覚があった。ただ辞書に載っている意味としての「背負う」とは違うわけである。

 からだ言葉が廃れつつある、あるいは、使われていてもそのニュアンスが薄まっていると言うことは、現在とかつての身体感覚に対する重要性の、一つの指標となる。

 こういった、「身体文化」は実際的な身体技術に基づいている。ただなんとなく身につくと言うものではない。実際に意識して行うことで身につけていく技術である。と著者は言う。
 そこで型の重要性が述べられる。
 型とは本質を凝縮したものである。自分にどの型が有効かを見極めることは重要であるが、型自体が自分を制限することはない。型を身につけることによって自然と高度にまとめられた基本を扱えるし、そこから応用も可能となる。
 型自体は反復することで習熟できるので、その型の意味を問う前に、まず身体で覚えてしまった方が早い。というより、強制的に覚えさせられる物である。型に付随する豊かな意味は後からわかっても問題ない。
 そういう点で型は教育的概念だという。
 型は基準線となる。型が設定されていなければ、前後の結果を比較できない。型を基にしてズレを修正するのである。
 そして幾つか設定したチェックポイントを基に、感覚を通して技は磨かれる。
 まずは頭で云々と言うことではなく、からだを通して得ていくのだ。

 日本文化は精神主義的であると言われるが、実はその精神性の基盤には具体的な身体技術があると著者は言う。むしろ身体性が重視された文化なのだ。
 しかし身体性と精神性は分けて考えられる物ではない。むしろそれは連関している。

 身体を通して感じとられる自己の感覚を「身体的自己」と呼ぶとする。
 自分の内側にある「自我」にばかり着目するのではなく、むしろ、そう言った「身体的自己」が自己の意識の基盤をなすのだと言う考えに立つとすれば、自己形成に対するイメージも異なってくる。
 つまり、実際の自分の身体に中心を見いだし、また世界を通して自分の身体で他者との距離を測るということを、実際の身体の感覚として感じられると言うことが大切なのだ。
 と同時に、自分の身体にだけ焦点を当てていても安定しない。自転車を漕ぐときも、自分の足下ではなく、視線を遠くへ飛ばすと安定する。だから意識を遠くへ放つことも必要になる。
 例えば東洋に於いては下方への方向性が重要な意義をもっている。リラックスして、地球の中心をイメージする。そこをもう一つの中心点とする。自分を頭から垂直に貫く中心軸が、地球の中央まで届いているイメージ(あるいは重力に身を任す感じ)だ。これは頭で考えるだけでなく、ぶら下げ運動などの実際の行為とセットにすると器として大きくなる。
 身体で感じると言うこと、そしてその感覚や、そこから生まれるイメージなどが、自分という存在感をはっきりとさせる。分裂病患者のように、自分の身体がよそよそしく感じられると言うこととは、大きく違ってくるはずだ、と主張する。

 著者は最後に身体文化を継承するためのカリキュラムを提案する。
 が、考え方としては柔軟だ。つまり、生活様式事態変わってしまったのだから、昔の(江戸時代の)感覚をそのまま取り戻そうなどとは考えていない。
 現在の生活様式の中で身体文化を再生していく発想が重要であるとしている。基本を抽出して、現代にアレンジしていくべきだろうという考えは、現実的だ。
 そして、昭和の子供達をモデルとすべきだとし、かつてを生き、自然に身体文化を身につけていた今の大人達に、その継承を促している。

 自分自身の充実や、世界との距離を測り、円滑なコミュニケーションをとること、それらの基盤には身体がある。そして、それらは貴重な文化である。現代はそれらがないがしろにされている。なので、それを現代に合う形で取り戻していこう、と言うのが著者の主張なのだと思う。

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 長くなってしまった。うまくまとまっているかはわからない。正直なところ、自分自身、今回本の内容の総決算というか、全体を通したまとめを把握するために書いていた部分も多い。
 著者の思惑と違って受け取ってしまっている部分もあるかもしれない。あくまで一読者のまとめとして受け取っていただきたい。

 個人的には先に挙げたように読書をする際の試みを幾つも取り入れた本として思い入れの深い作品になったが、それ以外にも実際に生活する中で、自分の身体に関して有用だった点でも評価したい作品だ。
 例えば足の踏ん張りに関して。最近は踵に重心が移っていて、それは良くないと言うような旨の引用があった。全ての動作の基本は直立能力という。武道の基本も、足の指をしっかり開いて地面を掴むとされている。
 著者の言う自然体とは足を均等に開き、膝を軽く曲げ、腰とハラをしっかりとさせておき、すっと背筋が伸びて肩の力が抜けた状態。という。
 自然体に於いて親指の付け根の膨らんだ部分に体重が乗っている。ここは踏ん張るときに力が入りやすい部分だという。
 こういったことを意識して日常生活の中で動作をこなすと確かに力が生まれるし、踏ん張れる。

 また、これは偶然のことなのだが。
 散歩(ウォーキング)や、バットを振ったり、球を投げたりという事をしている中で、自分独自に「中心軸の感覚」というものを得た。
 これは、頭頂部から棒を突っ込んで股間と肛門の間(会陰)から突き抜けていると言うイメージだ。
 以前、現マリナーズで、前ホークスの城島捕手も、バッティングの感覚として似たようなことを言っていた。独楽(コマ)をイメージしてい打っているという。つまり、自分の中心に棒が通っていて、コマのように棒に沿って、クルッと回転しながら打つ、と言う感覚だ。
 自分の場合はその中心軸を意識すると、顎が引かれ、背筋が伸びる。また、棒に沿っているという感覚があると、遠心力ではないが、何か抵抗を減らそうと、身体をスッとまとめようという感じになる。
 この中心軸の感覚は姿勢の在り方を正したり、動作をしっかりさせる際に有効だったりする。

 また最近、アトピー対策で健康に気を使って生活している。運動などでも身体を引き締めたりしているのだけど、身体がしっかりしてくると確かに、内側にも変化がある。身体が土台となりエネルギーが漲る。それが精神を向上させ、身体を動かす原動力ともなる。

 自分にとっては意義深い一冊となった。
「齋藤孝の速読塾」を買いました。

 速読の本は以前一冊別のものを買ったことがありました。それはページを映像として捉え、聴覚ではなく視覚で理解するというもので、その仕組みを体(脳)で作ることで飛躍的に読書量が増える、と言うものでした。

 何というか、例えが適切かはわかりませんが、今までが自転車や車を使っていたならば、それをヘリや飛行機に乗り換えようという類のモノでした。ただし、運転技術が当然違いますから、それをマスターするために色々と訓練して思考回路を変えていくという作業が必要になります。

 対して、今回の速読塾は、訓練はもちろん必要ですが、飛行機だとかスペースシャトルだとか、乗り物自体を高度な物に乗り換えるような、そういった特別難しい技術を要する方法は提示していません。
 今まで車に乗っていた人が、より効率よく目的地まで運転していける方法や、物の考え方、物の見極め方と言った、技術を提示しています。

 特殊能力を獲得すると言うよりは、読み方や読む意識を工夫するようなことを指南しています。ニュータイプになるんじゃなくて、オールドタイプのまま技術を上げるというか。

 個人的には「ヘリコプターの感覚で島を作っていく方法」は良いかもなあと思っています。
 なるべくページに早く目を通していって、キーワードとなる部分、あるいは理解出来る部分をチェックする。前後の文章も目に入りますから、そこを島とする。そういうことを繰り返していくうちに、本全体の流れや繋がりがわかってくる。
 部分部分に注目して本全体に一回目を通してみる。そうすることによって理解しやすくなるし、本の中でどのあたりに重要なことが書かれてあるのかと言うことが判断しやすくなる、と言うことです。
 本には重要なところとそうでないところがあるから、それを見極めて、重要な部分にエネルギーを注ぐ。重要な2割だけを読んで、内容の8割を理解すると言う主張です。そうすることによって、余力を別の本に回せます。そこから新たな見識を得られるというわけです。

 この本では「本を最初から最後まで全てを確実に読む必要はない」と提言されています。ポイントを見極めて重要な筋を把握すればいい。そのために例えばタイトルや目録、帯、目次などからテーマを予想したり、著者と感覚を近づけてみたり、3色ボールペンを活用して視覚的にわかりやすくしたり、といった、具体的な方法が紹介されます。
 雑誌は読みやすいのに本は読みにくいというのなら、雑誌感覚で本を読むように工夫をしてみてはどうだろうか? とか、テレビを見ていてもトイレに行っていても、活用できる時間があれば本を読むとか、とにかく日常にすり寄り、絡め、個人の工夫で「速読」「多読」を可能にするための「アナログ的手法」が次々と記されています。

 全てが自分に合うとは思いませんがこれだけ訴えかけられると「なるほど、こういう手もあったか」と思いますし、「じゃあ自分も、これを取っかかりに何か一工夫してみるか」という気にさせられます。
 何より勇気づけられます。著者の前向きなスタンス、本を数多く読むこと、そこから得られる物の素晴らしさ、多読をこなす手段の雨あられ。
 飛ばし読みすることに対する恐怖や、本を汚しながら読むことに対する抵抗など、従来本を読むことにブレーキをかけていた諸要素をぶち壊してくれます。
 それらをした方が、むしろ良いんだ、と。
 10冊を同時並行で読めとか、毎月最低1万円を本に投資するのはどうかなど、実践するか否かは別として具体的な数字を、しかも自分にはやや大きめの単位で見せられると、そこまでは無理としてもその何分の一ならば可能かもしれないと思えます。

 本をたくさん読むことで得られることを嬉々として書かれているので、それが出来るようになったときの自分を想像すると、ワクワクしてきます。成長した自分の可能性を感じさせてくれるのです。
 もしかするとこの本において、「速読」「多読」を可能にさせる一番の要素は、そういった著者の本に対する愛、本を書き記した人達への尊敬の念かもしれません。 
 5月の頭に「惑星のさみだれ」7巻を買って読みました。
 まあ相変わらず面白かったです。
 過去の戦い、騎士達の関係、成長、アニムスとのやり取りや戦いにおける細工などなど、個人的に面白く読める部分は多いです。
 作品を通してのキーワードは色々あると思うけど、「ヒーロー」「大人と子供」「絆」とかそういった部分が強いのかな。個人的には、「前回の戦い」の詳細が非常に気になる。時たま出て来るけど面白いよなあ。
 色々とわからない部分は多いですけど。これまでのやり取りの中でもあったけど、例えばアニムスが時空をすり潰して過去へと遡る先進波って言うけど、どの程度の単位ですり潰しているのか。時間の最小単位? さすがにそれはないよなあ。まとまった単位で遡っているんだろうか。
 などなど、気になる点は色々ありますが、著者がどこまでを含み、狙って現在描いているのか、楽しみたいです。

 7巻ですが、一番個人的に面白かったというか、これ、凄いなあと思ったやり取りはこちら。読みたくない方は飛ばしてください。

太陽「生きてたっていいことなんかない!!」
雪待「ある! ないなら作れ!! 生きて帰って、ラーメン食べるよ。みんなで食べる」

 この、「ないなら作れ」っていう、凄くシンプルで単純な、でも全てを含み込んだ言葉というのはなかなかないなあ、と言うか凄いというか。
 個人的にも今まで生きてきて、過去に「果たして人間には生きる意味などあるのだろうか?」などとモヤモヤ考えていた時期があって、その時の結論はとりあえず「ない」。でも追補があって、「ないなら自分でこの世に意味を見いだす。作り出す」とした。
 この事があったから、個人的に上記の「ないなら作れ」発言には非常に敏感に反応してしまった。真理だ。
ISBN:4569636136 新書 加藤 諦三 PHP研究所 2006/01 ¥798

この本に書かれている症状だけを見るなら、
この本は俺のことを書いているのか?
と思ってしまうくらい、心理が当てはまっていた。
アマゾンの商品紹介ページを見たときの衝撃と言ったら無かったなぁ。

認めてもらいたいのに気持ちをハッキリと伝えられない。さみしいのに人と接すると居心地が悪い。気まずくなれば自分の殻に閉じこもり、非難されると不機嫌になる。だから摩擦を避ける。
恥ずかしがり屋は「失敗するのが怖い」「他人から評価されるのが怖い」「断られるのが怖い」「親しくなるのも怖い」。そして臆病になり、他人を警戒し、不信感を持つようになった人なのだ。
「こんなこと言ったらバカにされる、嫌われる」と思っていませんか。我慢しないでちょっとだけ自分を信じてみたら、人づきあいが楽になる。
[「恥ずかしがり屋」はこんな人]
人に対して「臆病・警戒心・不信感」を抱いている/人と話していて、会話が途切れることを恐れる/怒られると、自分が悪いことをしている気になる/気まずいことがあると、自分が我慢して取り繕う/相手から非難されると、憂鬱で不機嫌になる/嫌われることを恐れて、自分の意見を言えない/うつになりやすい


私見ですが、日本人は基本的に恥ずかしがり屋の性質を持っていて、症状の差こそあれこの本に書いてあることは当てはまったりするのではないでしょうか。
しかし、重度の人間と軽度の人間ではやはり相互の理解や心理的なバックグラウンドに違いがある。
重度の人間には、それ以外の人にとって少し理解の難しい行動や内面がある。

この本は症状とその内面ができあがった背景、根っこにある重大な心理を解説している。
解法もあるが、ちょこっと付随している程度。
恥ずかしがり屋自身が、あるいは恥ずかしがり屋が身近にいる人が読み、
本人を理解し、裸になった本人と向かい合っていくという形。

本当の自分を隠すために自分を良く見せようとする。そして疲れる。
だから人に近づきたくない。本当の自分がばれて、嫌われるのが怖いから。
などなど、まさに内側を覗かれているかのような文章。

親に関する記述のところ。
うちの場合、家庭環境が特殊なので、一概に言えない。
親から受けた影響もあるのだろうし、あるいは家庭外の、学校生活などで受けた影響も強く反映されているのだろう。
しかし一番大きいのは、おそらく兄からの影響であろう。
年が離れているので、良い意味でも影響を受けたが、
悪い影響の方が遙かに大きかったと、今では考えている。
彼もまた我が家の特殊な家庭環境の被害者で、
そこから情緒不安定のような形になったらしい。
しかしだからといって俺は彼を赦すことが出来ない。
彼の偏屈で凝り固まった性格にはうんざりなのです。
出来れば縁を切りたい。
親に関する記述の部分を彼に当てはめると、
頷ける部分が多い。

この本を読んで、少し自信をもらった気がする。
不安は拭えていないけど、
それはこの先時間をかけて少しずつ払拭していくしかない。
難しいけどね。
いろいろな面で。
ISBN:4754254805 ムック 英知出版 2005/04 ¥820

煩悩と親友です。

さて、このムックは白水着にこだわった内容で、
登場するグラビアアイドルはみんな白水着。
登場人数も数十名(60人くらい?)、
付いてくるDVDは170分のボリューム!!(まだ見てない)
下手な写真集やDVDよりずっとお得な内容です。
これだけ人数が出ているので、
気になっていたけど、あまり触れる機会がなかった、
というようなアイドルが何人かいたりしました。

基本的には表紙を飾っている川村ゆきえ嬢がメインです。
いや、初めて見ますけど、なんすか、この成熟した感じは。
ほんとにまだ十代かよと思ってしまいます。
なんだよこの肉感は、と。凄まじすぎます。

昔絵をちょろっと描いていたことがあったので、
未だに時々絵を描きたい描きたい描きたいと疼くことがあります。
基本的に上手くはないので、頭の中のイメージとギャップが出来て、
ムキーッてなるんです。
人物を描く時なんかは、やっぱり本物の人間を描いた方が練習になると思います。
男だったら格闘技の雑誌とか、ぺ・ヨンジュンの写真集みたいなのとか(笑
女性を描く場合は、やはりこういうグラビア系のものが参考になりますね。
実物の異性で、モデルになってもらえるようなステディな関係を築かれている方は
こんな写真集なんか見なくてもいいんでしょうがね。ペッ。

まあ何はともあれ、
個人的には買って正解でした。

マンガ嫌韓流

2005年9月6日 読書
ISBN:488380478X ムック 山野 車輪 晋遊舎 2005/07 ¥1,000

以前から韓国中国が日本に対してやたらと厳しくて、それは結局先の戦争があったからしょうがないだろう、と思っていたわけです。
また近代史に関しては学校で深く習っていないし、自分から積極的に習おうという姿勢でもなかったので、まあしょうがねえよな、ちょっとうるさいけど、みたいな感じでした。

しかし高校卒業後、歳を経るにつれ、そういった異常な反日感情が気になりだします。そういうニュースや討論番組などで韓国側が自論を展開してきても、見ている自分は何一つ反論できません。
それも当然で、戦前・戦中・戦後の近代史に関しては、ほとんど知識が無かったからです。
日帝批判、植民地時代の搾取と収奪、差別や強制労働など、相手が速射砲のように次々かましてくる問題には、ほとんどコメンテーターの反論に期待するしかありませんでした。

自分で歴史を知って、そこから自分の認識を持ちたい、自分で反論できるようになりたい。事実とは何か? という思いが日に日に強くなり、最近では本を買って読んだりしています。

本は色々買うんだけれど、読むペースがついていかなくて、まだ全然読破できていないけれども、それでもだんだんと知識として身に付いてきました。

この嫌韓流では、漫画形式で割とわかりやすく日韓の問題について取り扱っています。
漫画なので読みやすいです。
個人的にはハングルの起源と竹島問題が知りたかったので、そのことについて書いてあったのは参考になりました。国際司法裁判所で結論を出そうという誘いを拒否しているのも、まあ、そんなところだろうね……。

この本はタイトルから推測するような、韓国このやろう!
というような内容では必ずしもありません。
一方的な韓国寄り・反日派の無茶苦茶な言い分や論拠に対する、日本側のまっとうな反論を展開している、といえるかと思います。
根底には相互の和解と親交が願われているのです。

ここに書かれている日本側の主張が全て正しいのかはわかりません。
調べるにしても、時間を要すでしょう。
ただし、大筋ではこの通りなのではないでしょうか。
(こと韓国に対しての)歴史問題には、十分な取っ掛かりにはなるでしょう。

しかし色々制限はあるでしょうが、ディベートの時の韓国側があまりにもあっさりやられてしまっているのは、ちょっと気になります。
ISBN:4096818313 単行本 岩合 光昭 小学館 2005/04 ¥1,470

たまらん。
辛抱たまらん。

この猫の写真集は素晴らしい。
息遣いというか、猫の感情や、動きが伝わってきて、
抱き寄せて撫でてやりたくなる。
こちらをじっと見ている三毛やトラなどの顔を見ていると、
何かを語っているよう。
「早く来いよ」
「なんだい?」
こうして文章にすると、安っぽくてちっぽけだ。
物言わぬ彼ら(彼女ら?)の顔は、
言葉以上の言葉を発しているのです。
そしてその表情や構図や瞬間瞬間の動きを、
ここまで見事に撮っている写真家さんに、ありがとうと言いたい。
ありがとう。
ISBN:4094180311 文庫 田村 明子 小学館 2002/04 ¥540

物凄い散らかっていた、というわけではないけど、局所的に物を集めておいた(要するに面倒くさいから適当に置いといた)部分が多く、前から気になっていたわけです。
だから部屋の掃除をしたい、という欲求はあったもののとりあえず先延ばしにしていました。まあ結局、歩くのに困るとか、そこまで深刻ではないし、生活する上でほとんど問題が無かったので放っておいたわけです。
そんなある時、アマゾンで偶然この本にめぐり合って、かなりの人数がレビューをしていて、しかもそのほとんどが高評価であったので、買ってしまいました。

これは確かに、素晴らしい。

ページ数も文字数も多くはないし、難しい事が書いてあるわけではないので簡単に読めると思います。しかし、読み切る前にもう体がうずうずしだして、掃除をしたくなってしまいます。それくらいこの本の内容は魅力的というか、後押しには最適なのです。

風水整理術、とありますが、別に風水を信じていようがいまいが、あまり関係ないでしょう。エネルギーが滞るとか、波動がどうのこうのと出てきますが、風水を胡散臭く感じる人ならそこの部分を飛ばして(反対の耳から素通りさせて)いっても別に問題ありません。
心理的・体調的な足枷を解くための、実践的で実際的な考えや話が度々出てきて「そうかもな」と思えてしまうのです。
読む人をほとんど選ばない、間口は広くて、効果は抜群で、しかも安い。
掃除をしたいけど、なかなか踏み出せない(理由は色々あるでしょう。面倒くさいとか、捨てるに捨てられないとか)人は、是非買って一読する価値はあると思います。

個人的に風水など、超常的なものに対しては是でも否でもないスタンスですので、自分の中にスッと入ってきて「そうだな」と思うものに関しては認めています。
ガラクタが溜まるとエネルギーの流れが悪くなって、嫌な空気(感覚)を感じるというのは何となくわかる。
この本を読み、掃除をしだしてから、以前はなんとも思わなかった積み物がゴミに見え出し、すっきり整理すると清涼感で満たされます。
整理整頓された空間というものは気持ちの良いものです。
清掃を始めてから、最近は結構気分が良いのです。

詰まるところ、自分が変わるのです(ちょっと大袈裟だけど)。
掃除をするという能動的な行為は、自分の体を活発化させますし、いらないものを捨てる時は爽快で、一種のストレス発散になります。
さらに整理された部屋で生活する事によって、心も晴れます。
そうやって心理的に曇りから晴れに変わっていくと、態度にもそれが表れるようになります。
自分自身能動的になりますし、表情も違ってくるでしょう。

掃除がいかに大切で、整理された部屋がいかに大切か、
ここのところ痛切に感じています。

やり始めてから気付いたのですが、まだまだ適当に放っておいたものや、捨てられなかったものなどが相当溜まっています。段々と時間をかけながら整理していこうと思います。

この本は買って良かった。
ISBN:4087820742 コミック こばやし ひよこ 集英社 2004/04/20 ¥945

始めに言っておくと、俺はこれを読んだことが無い。
ただ、

http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=4-08-782074-2&;mode=1

↑ここから試し読みできるのだけど、
主人公の女はアホなんじゃないかと思う。

純粋・無知=アホというのは少々強引かもしれないけど、
それにしても酷い。

まあ、この本って、結局そういうリアリティーとか常識を求めてはいけないものなんだろうけどね。
そういう部分をあえて楽しんだり、娯楽と言うか煩悩というか、そういう欲求を満たすため、充足するためのものだと思う。

だからまあ、観賞用としてはいいのではないだろうか。
ただ、この主人公を好きなるかどうかといったら、たぶん無いな。
ISBN:4835609247 単行本 脇田 寧人 ぴあ 2004/03 ¥1,365

ワッキーがゴールした。

ローカル番組なので知っている人は少ないと思う。
名古屋のテレビ局、CBCの土曜深夜に「ノブナガ」という番組がやっている。
その一コーナーとして「地名しりとり」が始まったのが、もう3年と10ヶ月前にもなる。

お笑い芸人「ペナルティ」のワッキーこと脇田寧人が、地名のしりとりをして、「愛知」「岐阜」「三重」の三県に訪れることが出来ればゴールというものだった。

ルールとしては、ワッキーは言われた地名に行って現地の人としりとり。答える側は行ったことのある地名しか言えない。
行った先の市町村名最後の文字が「ん」だった場合は、一つ前の地名に戻るということになっている。
愛知と岐阜はもう最初の2回くらいで出たのだけど、それからなんと3年間以上もずっと三重の地名がでず、全国各地(海外含む)を飛び回っていたのだ。

俺は最初から全部見ていたわけじゃないし、決して毎週欠かさず見ていたわけじゃない。気がついたら見るくらいだったのだけど、それはつまり、見ようと思ったら見れると思えるほど、ワッキーがしりとりをしているのが当たり前のことになっていたのだ。
(で、しかも行けそうな気配がない。旅の途中で会った番組視聴者という人も、なんかわざと三重の地名を出さないような感じすらあった)

「水曜どうでしょう」にしてもそうだけど、やってる当事者からしたら相当辛いに違いないが、見ている方は楽しい。
しかもこの企画は3年続いていたので、視聴者も愛着を持っていた。
影響されて旅に出る人もいた。
何より、最初は愚痴っていたワッキー自身が、もうすでにこの企画に愛着を持っていたのではないだろうか。
ゴールした瞬間、そしてその後の涙ぐむ辺りからそううかがえる。
色々な思い出が去来したに違いない。
旅先で出会った人や、お店、風景……。

スタジオの東野今田、雨上がりの二人も、なにやら感慨深げな様子だった。
小倉優子と根本は来れていないようだったが。
来週(か?)、ワッキーがスタジオに現れるらしい。
その後もおめでとう企画をやるみたいなので、出来れば見たい。

しかしなぁ。
俺もこういうのやりたいよなぁ……。
でも結局は金のせいにして逃げるからなぁ。俺は。

あんな旅したいよなー。
いや、ワッキーみたいじゃなくてもいい。俺なりの旅がなぁ。
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アマゾンの単行本ページ↓
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4835609247/diarynote-22/ref%3Dnosim/249-6749398-4675568

ノブナガホームページ↓
http://hicbc.com/tv/nobunaga/

NOVEL MIHO YOSHIOKA

2004年9月12日 読書
ISBN:4091012205 ムック 加藤 亜希子 小学館 2004/03 ¥980

女性の写真集は2〜3冊持っている。
大抵の写真集は、結局のところ男性の欲情を満足させるための内容であると思うのです。
2,3冊しかもっていないのでわかりませんよ。これは客観的というか、個人的に写真集というイメージを語った時にそういうことを思ったわけです。
んで、これ以外の持っている写真集もそうで、要するに絵と想像力でイメージを膨らませて好きに使えよ、見たいなところだと思う。
被写体の魅力も、もちろん出そうとはしているのだろうけど。

そういう点で、この吉岡美穂の写真集はちょっと違う。趣向が。
カメラマンが女性というのもあるんだろうけど、そういう、欲情を満足させるための、と言うような感じはない。
綺麗だとか、爽やかだとか、そういう感じ。
とってもね、いいんですよ。
ハッキリ言って、下手なエロさを煽った内容のよりも、ずっと満足できるます。
癒されるというか。
まあ元々が、写真に詩のようなものをのっけるという構成自体、そういうのを意図したものではないような感じが伺えるからね。
個人的に、大きな文化財のような見物を背に、安座している様がとても気に入っている。
というか、この人の肌凄い綺麗な。
ファンデーション全身に塗ってるんじゃないかってくらい、なめらかな肌。

吉岡美穂最近好きなのよ。
俺ってあんまり女性芸能人とか知らないし、今までも特に好きな人っていなかったんだけどね。
ちょっとだけ好き。
昔よりも、今みたいにちょっと肉ついてるほうがすきやね。
ふっくらしてるほうがね。

今ね、酔ってます。
頭痛い。
ISBN:4840221286 コミック あずま きよひこ メディアワークス 2002/06/06 ¥714

久しぶりに読み返してみた。

学園風景を中心に女子高生の日常を描いた作品。
4コマながら、独特の「間」や繋ぎ方でとてもユーモアに溢れた描写になっている。
もちろんキャラクターがそれぞれしっかりと個性を打ち出されているからこそで。
この4巻は最終巻。とても人気があったのに、きっちり進級〜卒業までやって終わったっていう。潔かったなぁ。

個人的に一番楽しかった学生生活が高校時代で、一番最後の学生生活も高校。
だからなんか、この巻の最後の方、卒業あたりはとっても感慨深いものがある。
つーか、卒業風景の描写が凄い生々しい。思い出すなぁ。
登場キャラクターの「美浜ちよ」が、最後とても寂しがっているけど、心情的には自分もああいう感じだったよーな気がする。

今読み返してみて、ようやくゆかり先生の言っていた言葉の意味がわかった気がした。

変身

2004年7月29日 読書
ISBN:4102071016 文庫 高橋 義孝 新潮社 1985/06 ¥340

(ネタバレっぽいの書いて有りますよ。)
フランツ・カフカ著の有名な作品で、文学(芸術)・思想に大きな影響を与えたらしいです。
自分が初めてこれを知ったのは高校の頃の国語の時間で、日本人の作品にこの「変身」の引用があったのを、先生が説明してくれた時でした。
内容は、この時は全然知らなかった。
その、「変身」するということ以外。

主人公と思わしきグレーゴル・ザムザが、朝起きると自分が巨大な虫になっているのに気付くところから話は始まる。
(何の虫かは特定されていない)
この話が有名になっている所以は、この部分が大きい。
しかも、何で虫になってしまったのか説明が無いし、グレーゴル自身、虫になったことを特別不思議がるような場面もほぼ皆無だ。
そういった発想の突飛さから内容の不条理さまで驚かされるというかなんというか。
虫になったと想像するだけでも気持ち悪いのに、文章力でそれが引き立って、読んでてちょっと肌に粟が立ったりもしました。
家族は怖気、厭いながらも彼の世話をするんですが、扱いがぞんざいなところもあります。
でも普通、家にどでかい虫がいると思うだけで嫌なわけで、この家族が施している世話が最大限の扱いだと思います。言葉も通じないので、虫が一体どんな行動をするのかとか考えただけで怖いですからね。
特に健気にしてくれる妹のグレーテをいとおしく思っちゃいます。

グレーゴルの心情の変化など、自他を含めた周囲の様々な描写にとてもリアリティがあり、読んでいて非常に興味深かった。
やはり、ずっとその姿をしていて、そういう生き物の動きをしていなければならない生活をしていると、自然と思考なども姿に近寄っていって、人間的なモノが消えていくのは仕方が無いのかなとも思った。
中島敦の山月記とかもそうだけど、その部分に関しては何となく有無を言わさないものがある。
グレーゴルの場合はそこまで極端に症状が進行していかなくて、人間としての心情も持ち合わせてはいるけど、やはり変化はあると思うし。

文章自体は、訳の問題等あるとは思いますが、わりと読みやすかったと思います。
2〜3時間あれば読めちゃいます。
個人的にはこれとはともて面白かったです。
笑っていいのかわからないけど、思わず、不覚にも噴き出してしまう部分とかあったりして(新趣向の這い歩きに気をとられて、の部分とか)、結構楽しめましたよ。
最後は一粒だけ涙がこぼれてしまいました。
色々な意味で読めてよかった。
カフカの他のタイトルもまた読んでみたいですね。
それでは。明日虫になるのは君かもよッ!! アッハハハハ☆(アニメの次回予告みたいに)
ISBN:4334032508 新書 齋藤 孝 光文社 2004/05/15 ¥735

ゲーテが名言吐きまくり。

それを齋藤が解説しまくり。

俺は俺で読みまくり。

蹴りたい背中

2004年7月7日 読書
ネタバレ有り。

綿矢りさ「蹴りたい背中」。
少し前に読み終わっていました。
今から書いてある文章は、著者の発言等を全く知らない人間の感想です。

文章はとてもリアルと言うか、自分の過去を思い出して舌打ちしたくなるような気分さえしてくる、とても自然体と言うか、そんな風がするし、読みやすい。
しかし、その全く日常風景、共感性の高い文章の中で、にな川に対する主人公の独特の感情だけがわからなかった。そこだけ凄く浮き立って、全く異質なものとして映った。
たぶんこれは綿矢りさの、人に対して向ける数ある感情の中の一つで、「多少わかるように努力はしたけど、特別、明確にわかるよう説明する気は無いので、想像するなりしてください」といったスタンス、姿勢で書いたんじゃないかな、と、個人的に思った。

あくまで予想です。
あと、にな川が最後オリちゃんに近づいて拒絶されて、「近くに行ったのに今までで一番遠く感じた」と言ったのと、主人公が友人と床を共にしている時、友人が「早くみんなに話したいなぁー」と言ったのを聞いて、友人の世界が自分のところには無いというのを実感した状況が似ていた。
二人とも遠くから眺めていた「近くのモノ」が、近くに接したことで「遠くのモノ」だと実感する辺りがね。

まあしかし、結構この終わり方っていうのも怖いなぁ。
前途暗雲漂う、みたいな感じですけど。
羅生門みたいな、暗喩なのかな。直接的なようにも思えるし。でも、どうなっていくかなんのは、わからないけどね。だいたい最後、朝焼けで終わるんだから、なんとも判断しがたい。
やっぱそれこそ、どうなるかわからんな。

全体を通して、自分の洞察力・理解力が低いので、言いたいこと、得る物が、見えなかった。
でもこれが芥川賞を取ったのだから、それなりに何かあるのだろう。
自分はこれを読んで、やはりどこか含みを持たせたような、完璧に明快ではない作品でもいいのか、と思った次第です。
人の考えで補完されるような。少し気が楽になった。
読みやすいし、楽しいと言えば楽しい。
綿矢りさは、ユーモアのセンスがあるね。
あと、少し怖いね。この人は。
知っているから書けるっていうのもあるし。
何か、怖いなぁ。
ISBN:4484881047 単行本 今井 茂雄 訳
ティビーエス・ブリタニカ 著 1988/03 ¥816

厚さはそれほど無い。と言うか、かなり薄い。
帯に書いてあるように、読書家は一時間あれば読めてしまうだろう。
自分は読むのが遅いので、解説等含め数時間かかったけど、それでもなんと一日で読むことが出来てしまった。
これは特筆すべきことですよ。
一日で読んじゃったなんて、高校生の頃の「チーズはどこへ消えた?」以来なのでね。

さて、そんな自分のことはどうでもいいですね。
この本はタイトルにもあるように、「アイデア」のつくり方を5段階に分けて記した本です。
まだよく咀嚼していないので、完全に飲み込めたとはいえないですが、しかしとても良い本です。
「60分で読めるけれど一生あなたを離さない本」という通り、この本の中で述べられていることはシンプルです。
それでいて、とても為になる。ハッとさせられる。
およそ半世紀も生き残ってきた本だけあって、その内容には頷かされるばかりです。

おそらく書かれていることを見てみれば、「ああ、それは知らず知らず自分も実践していた」とか、「多少意識していたところもあった」など、言われてみれば「ああそれは確かに」と思うようなものばかりです。
しかし、人間と言うのはそれを忘れがちだったり、ハッキリとは意識していなかったり、あるいは面倒臭さや忍耐不足から、通らなければいけない道順をすっ飛ばして、一足飛びに上のことをやってしまったりします。
この本は一からわかりやすく説明し、指摘することによって、アイデアの着想を得る前、また得てからそれを活かしていくまでの工程を教えてくれます。

少なくともこの本によって、自分が以前から持っていた「この世で得られる知識の中で何一つとして無駄なものは無い」という考えは確固たる物となりました。
(毎晩「トリビアの泉」スタッフに殺される夢を見ます。)
ただし、それと同時に自分の行動性の無さ、好奇心の狭さなども再認識させられることになりました。
とにもかくにも、この本は自分の中でとても良い一冊となりました。
読めてよかったです。
ISBN:4840210357 文庫 上遠野 浩平 メディアワークス 1998/12 ¥578

もともと読書量が少ないので、当然、上遠野浩平作品もそれほど読んでいるわけではない。
だいたい4,5冊くらいだろうか。
それでも、その数冊に共通しているのが、「切ない」ということだ。
「冥王と獣のダンス」にしても、「ブギーポップは笑わない」にしてもそうだし、上遠野作品には「切なさ」が詰まっている。

ブギーポップシリーズは人気作で、もう何冊も出ている。
この本は何番目だろう。4巻目前後くらいだと思う。
ブギーポップというキャラクターが、基本的には重要人物なのだろうけど、このシリーズにおいてはそれ以外の登場人物が物語の主軸となっている場合が多い。
タイトルは「ドラえもん」でも、実際はのび太が主軸となっているようなものだ。
読んだことのあるやつしかわからないけど、基本一冊完結型。もちろんバックグラウンドで繋がりがあるから、最初の方から手に取ってれば楽しめる要素も増えるんだけど。

結構前に読んだやつだから、話の記憶が曖昧だけど……。
この作品の登場人物は数人の少年少女で、彼らの共通項は「不思議な能力がある」ということ。
彼らはみんなで集まると、その能力でちょっとした遊びをして楽しんでいた。
みんなで集まってワイワイ言って、そういった遊びが、いつの間にか大きな事件に巻き込まれて……といった具合かな?

ちょっとネタバレになってしまうかもしれないけど、ほんとに、この作品には胸を締め付けられました。
みんなで集まって楽しんでいた仲良しグループが、あんな結末を迎えるんだからなぁ……。
ほんとに、悲しい話ですよ。
悲しくて切ない。
そして最後の、最後の一文が、見事に決まってて、それがまた胸をキュッとね。
ある意味トラウマになるんじゃないかと言うくらいショックでした。
でも、それくらい心を揺さぶるってことは、それだけ素晴らしい話なのかもしれない。

今また読み直そうと思っても、結末を知っているだけに結構体力が要るだろうなぁ。
でも、とても良いお話でした。

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