久々に映画館で映画を見た。
「インターステラー」だ。
インターステラーというと自分なんかはアヴェンジャーズインサイファイの「ディライトスライトライトスピード」という曲を思い出してしまうが、それは全く関係ない話。
異常に見舞われている地球に住むとある一家。その家長たる父が家族を地球に置いて、地球に代わる惑星を探しに行く、と言うのが非常にざっくりとしたあらすじなんだけど、これが一筋縄ではいかない内容になっている。
はっきり言って、これ、日本なんかでは絶対に作らないような、ハードなSFとなっていて、あちらは大金を使ってこういう映画が作られるあたり、国民性の違いがあるなあと感じる。
話の軸としては、可能性のある他の惑星を探しに行く、という明確な目的があるので、観客は物語に入り込みやすい。そこに家族愛、時空を超えた想い、と言うテーマを載っけていて、これが見事にSF的な話の筋と絡まっていてうまいなあと感じた。
この辺やはり日本の粗さが目立つ映画脚本にはできない。ハリウッド映画の場合、仮に脚本が多少無茶でも映像でごり押しできる部分があるとはいえ、この部分は日本とはかなり差があると思う。
科学的、というのは、観察して仮説を立て、実験して実証する、という流れによって証明されたもの(だと思う)だ。だから、それによって証明されたもの、あるいはそれを応用して取り扱える事象に対しては科学は非常に有効である。
一方で逆の言い方をすれば、科学的プロセスで証明できないことは、非科学的と言うことになり、そういった事象は取り扱えなくなる。
幽霊は非科学的だ、というのは、幽霊が存在しないと言うことではなく、単に科学で取り扱えない、または解明されていないと言うだけのことである。
そのものがあり得ないことである、と否定することは、実はかなり難しいことなのである。
そう考えると、この世の中というのはまだまだわからないことや、可能性が溢れていることが、何となくわかる。
書店で最新の宇宙論や物理に関する入門書を読んだりすると、なんだかもう突飛すぎていて宗教とか空想とかSFとか、そういう世界だなあと感じることがある。科学という分野を突き詰めていくと、意外にそういった内面世界や、超常現象、神秘主義と境界がなくなってくるのかもしれない、とか思ったりもする。
そういう風に自分が常々思っていたことを、この映画は見事に話としても、映像としても、悔しいくらいに表現してくれている。
自分が語れるわけじゃないが、SF好きならば楽しめるのは間違いないだろうし、話としても、親子愛を軸として、人間的な感情をしっかり描いていて、この点でも普遍的に皆が共感して感動できる作品となっていると思う。
自分は見終わった後に、とても寂しい気持ちになることがある。そう言う映画というのは、大抵出来の良い作品で、もう少しその世界に浸っていたい、まだ終わらないでくれ、と言う置いて行かれたような心情から出てくるものだと思う。
この映画についてもとても強烈な寂しさを見終わった後に感じた。
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ところで自分は中学の頃に「コンタクト」というSF映画を見たことがあるのだけど、その映画で初めて映像化されたワームホールを見てワクワクした記憶がある。
ネタバレになるのであまり書けないけれど、この作品でもそんな、「どうやってあの概念や事象を映像にするのだろう」という所が出てくる。
そんな難しい部分に積極果敢に挑んで見事な映像を作り上げたスタッフには拍手を送りたい。
最後に一つ、疑問だけ(ネタバレ含む)。
主人公は彼らに導かれたが、その彼らを導いたのは一体?
「インターステラー」だ。
インターステラーというと自分なんかはアヴェンジャーズインサイファイの「ディライトスライトライトスピード」という曲を思い出してしまうが、それは全く関係ない話。
異常に見舞われている地球に住むとある一家。その家長たる父が家族を地球に置いて、地球に代わる惑星を探しに行く、と言うのが非常にざっくりとしたあらすじなんだけど、これが一筋縄ではいかない内容になっている。
はっきり言って、これ、日本なんかでは絶対に作らないような、ハードなSFとなっていて、あちらは大金を使ってこういう映画が作られるあたり、国民性の違いがあるなあと感じる。
話の軸としては、可能性のある他の惑星を探しに行く、という明確な目的があるので、観客は物語に入り込みやすい。そこに家族愛、時空を超えた想い、と言うテーマを載っけていて、これが見事にSF的な話の筋と絡まっていてうまいなあと感じた。
この辺やはり日本の粗さが目立つ映画脚本にはできない。ハリウッド映画の場合、仮に脚本が多少無茶でも映像でごり押しできる部分があるとはいえ、この部分は日本とはかなり差があると思う。
科学的、というのは、観察して仮説を立て、実験して実証する、という流れによって証明されたもの(だと思う)だ。だから、それによって証明されたもの、あるいはそれを応用して取り扱える事象に対しては科学は非常に有効である。
一方で逆の言い方をすれば、科学的プロセスで証明できないことは、非科学的と言うことになり、そういった事象は取り扱えなくなる。
幽霊は非科学的だ、というのは、幽霊が存在しないと言うことではなく、単に科学で取り扱えない、または解明されていないと言うだけのことである。
そのものがあり得ないことである、と否定することは、実はかなり難しいことなのである。
そう考えると、この世の中というのはまだまだわからないことや、可能性が溢れていることが、何となくわかる。
書店で最新の宇宙論や物理に関する入門書を読んだりすると、なんだかもう突飛すぎていて宗教とか空想とかSFとか、そういう世界だなあと感じることがある。科学という分野を突き詰めていくと、意外にそういった内面世界や、超常現象、神秘主義と境界がなくなってくるのかもしれない、とか思ったりもする。
そういう風に自分が常々思っていたことを、この映画は見事に話としても、映像としても、悔しいくらいに表現してくれている。
自分が語れるわけじゃないが、SF好きならば楽しめるのは間違いないだろうし、話としても、親子愛を軸として、人間的な感情をしっかり描いていて、この点でも普遍的に皆が共感して感動できる作品となっていると思う。
自分は見終わった後に、とても寂しい気持ちになることがある。そう言う映画というのは、大抵出来の良い作品で、もう少しその世界に浸っていたい、まだ終わらないでくれ、と言う置いて行かれたような心情から出てくるものだと思う。
この映画についてもとても強烈な寂しさを見終わった後に感じた。
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ところで自分は中学の頃に「コンタクト」というSF映画を見たことがあるのだけど、その映画で初めて映像化されたワームホールを見てワクワクした記憶がある。
ネタバレになるのであまり書けないけれど、この作品でもそんな、「どうやってあの概念や事象を映像にするのだろう」という所が出てくる。
そんな難しい部分に積極果敢に挑んで見事な映像を作り上げたスタッフには拍手を送りたい。
最後に一つ、疑問だけ(ネタバレ含む)。
主人公は彼らに導かれたが、その彼らを導いたのは一体?
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