2011年2月13日の中日新聞に「静岡発 こう読む」というコラム(?)が載っていた。それを読んでいまいちモヤモヤが晴れないため、なぜなのか検討してみたいと思う。
 以下、大雑把に段落に分けて番号を行頭に記し、改行してスペースを空けている。
文明を測るテスト 津富宏
①日本には死刑がある。民主主義国家で死刑を実施しているのはわずか五カ国。そして、先進国(OECD加盟国)ではわずか二カ国。もう一カ国はアメリカだが、アメリカでも、十九州と連邦区は、死刑を廃止しているか実施していない。日本は、民主主義国家や先進国における孤児である。

②死刑廃止の先進地域のヨーロッパで、死刑が廃止されたのは遠い昔ではない。英仏独の三カ国の死刑廃止はいずれも、第二次大戦後である。この中では、ドイツが最も早く、大戦直後の1949年に廃止している。

③それはなぜか。
 ナチスによるユダヤ人虐殺を経験したからである。国家が、マイノリティーを抹殺する存在となりうるということを知ったドイツは、国家の手から、死刑という刑罰を奪った。

④これらの国は、世論において、死刑支持派が反対派を上回っているときに、死刑を廃止した。ドイツでは廃止時点で死刑支持が55%、反対が30%、フランスでは支持が62%、反対が33%だった。世論の意志ではなく、議員の意思によって、死刑は廃止された。

⑤それはなぜか。
 ナチスは、圧倒的な市民の支持によって選ばれた政権であり、一般市民の意思に判断を委ねることがいかに残虐な国家をつくりうるかを、政治家が思い知り、マイノリティーを守ることが、政治家の使命であると悟ったからである。

⑥犯罪学の研究は、言論と思想の自由、結社の自由、法の支配、男女同権、婚姻の自由など、政治的な自由度がない国ほど、死刑を存置していることを見いだしている。中国やイランなど、代表的な死刑存置国には、このことが当てはまる。

⑦そして、もう一つの死刑存置国の日本では、首長選挙で、圧倒的マジョリティーを得た政治家が「民主主義の扉を開けた」と語る。僕は思う。
 マイノリティーが守られること。それが民主主義である。
 「犯罪と犯罪者の処遇に関する、市民の態度と感情は、一国の文明を測るもっとも確かなテストの一つである」(チャーチル、1910)。(静岡県立大准教授)

 この文章が言いたいことはつまり、
「民主主義とはマイノリティーが守られることである」

「国家はマイノリティーを抹殺する恐れがある」

「死刑制度はマイノリティーを抹殺する手段になりうる」

「だから民主主義国家である日本は死刑制度を廃止すべきだ」

 ということのなだろうと思う。そこで幾つか疑問が浮かぶ。
・死刑制度によって、マイノリティが殺されるのだろうか?
・そもそも、マイノリティとは誰を指しているのか?
・死刑制度は悪か?

 文章を振り返ってみたい。

 ①ではまず、民主主義国家、先進国において、死刑制度を設けているのはほぼ日本のみであるという旨が書かれている。
 ②ではヨーロッパ、特にドイツが死刑を廃止したことについて述べている。
 ③において、ドイツが死刑を廃止した理由が書かれている。ここではナチスのユダヤ人虐殺を持ち出して、「国家がマイノリティーを抹殺しうるということを知ったため、死刑制度を廃止した」としている。
 ここがまず疑問なのだ。死刑制度があったからマイノリティが殺されたのだろうか? 仮にこの時ドイツに死刑制度が無くても、ナチスが新たに制度として作り上げただろう。ユダヤ人虐殺はナチスという特異な支配体制による国家政策であり、はっきりとした人権無視、不条理な殺害がある。
 一方で、死刑制度はそれ単体では罪人を裁く刑罰の一つでしかない。適切な法律の下、独立した司法が、客観的な運営によって死刑を下したのならば、そこには問題はない(例外はあるかもしれないが)。
 つまり単純に死刑が悪、ということにはならないし、死刑があるからマイノリティが殺される、ということにもならない。むしろそういう国家体制に至ってしまうことが問題である。
 死刑制度とナチスによるユダヤ人虐殺を繋げているところに無理があるように思えるのだ。
 ④では、世論に反して、議員の意思で死刑が廃止された旨が書かれている。
 ⑤においてその理由が述べられる。ナチスは民意に選ばれた政権であり、民意が残虐な国家を作りうるため、マイノリティを守ることが政治家の使命だと悟ったためとある。
 ここではもはや民主主義を衆愚政治とみなして根本から否定している感さえある。そんなことを言い出したら、最終的には政治家が政治をするのであり、民意があろうと無かろうと、善政も悪政も起こりうるのだ。王道政治をしろと言うことかもしれないが、まあそれは置いておくとして。
 ところで、この書き手の言うマイノリティとは一体誰なのか、ということが疑問として浮かぶ。個人的には、文章中におけるその言葉の使われ方に問題があると思う。
 というのも、ユダヤ人など一部の差別を受ける人間(マイノリティ)と、非道な犯罪者(マイノリティ)を一緒にしてしまっているからだ。 
 差別を受けている人については③のユダヤ人虐殺の件でマイノリティという言葉を使っているし、犯罪者をも指しているということは⑦の最後、チャーチルの引用で「犯罪と犯罪者の~」という部分を使っていることから間違いないと思う。
 ⑦で、書き手は「マイノリティーが守られることが民主主義である」としている。
 民主主義の定義にもよるが、マイノリティが守られるのは大いに結構。ただし先程も書いたように、被差別者への不当な弾圧(による殺害)と、罪人に適用する(適正な)死刑制度は別問題である。
 犯罪者をマイノリティとして一緒くたにしてしまうのはおかしい。人道上何も罪を犯していない人と、人道上の罪を犯した人が、同列に語られるのには無理がある。
 犯罪者の人権を無視しろと言うことではない。人権を尊重しつつ、犯した罪に対しての厳罰として死刑があったとしてもおかしくはないと言うことを言いたいのだ。
 以上のことから、民主主義国家や先進国において日本がいかに「孤児」であったとしても、別段恥じることはないし、死刑を廃止しなければいけない、ということにはならない。
 もし廃止しなければいけないというのならば、死刑が悪である根拠を示さなければいけない。
 文明を測るテストというが、その基準はなんなのか。基準があったとして、それが正しいのかどうか。
 何を罪として、罪を犯した人をいかなる刑罰に処すのか。それが正しいのかどうか。
 それらはまた別の方面で込み入った話になるし、今回は止めておこうと思う。

 とにかく今回は、上記のコラム(?)にいまいち合点がいかなかったので、自分なりに分析してみた次第。最終学歴が高等学校、それも落ちこぼれ学校の末席にいた人間の戯言ということで。

 余談。
 ⑥では自由のない国ほど(非民主的な国ほど)死刑制度が置かれているという主張が書かれている。しかしこの段落に書かれている物については、日本はほとんど保障されていると言っていいだろう。つまり今の日本には当てはまらない。なぜこの文章をここにもってきたのかいまいちよくわからない。もし書くとしても冒頭の方が読みやすいような気がするが。

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