とりあえず先日読み終えました。まず触れておきたいのは、本書が色々と思い入れの深い作品になった、と言うことです。
 と言うのも、最初から最後まで多色ボールペンで線を引きながら読み終えたのもこの本が初めてですし、途中から本の上の余白に要約を入れ始めるという試みもしましたし、「齋藤孝の速読塾」の一部方法論を後半部分から用いたりもしたからです。
 要するに読書における様々な工夫、試みを、読み始めた当初から読み終わるまで次々導入し実行したと言うことです。
 間違いなく読むスピードや理解力は以前よりも上がったと思います。

 一方、本書に関しては、そのような変遷を辿ったため、最初の方と最後の方では理解に差があるかもしれません。また、理解力が上がったと言っても、そもそもの能力がしれているので、あまりエッセンスを読み取れていないかもしれません。
 つまりうまく紹介できていないかもしれませんが、その点はあしからず。

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 著者は日本には固有の伝統的な身体感覚が脈々と受け継がれてきていたとする。それらは日常生活における各行為の中で、あるいは年長者からの指導によって技術として身につけ、そしてまた次代に受け継がれていったと。
 ところがこの身体文化の断絶が唐突に起こることとなる。
 敗戦のショック。文明化に伴う生活様式の変化。そして、青年期にカウンターカルチャーを経験した現在の60前後の親たちが、自分の子供達に躾けることをしなくなったことが大きな要因となったと述べる。

 普段これらの感覚という物は意識されにくい。数百年間にわたって引き継がれ、培われてきた身体の技術や感覚が失われつつあることに危機感を抱いた著者はそれらを「文化」として認識しやすい形として提示した。

 著者の提示する(衰退傾向にある)日本の身体文化の中心軸は「腰ハラ文化」と「息の文化」の主に二点。1~4章あたりまではそれがかつての日本人に根付いていたと言うことと、その事の意義、重要性を説明している。
 そして5章で身体と精神の関係、終章で現時点から未来へ向けての具体的な提言を記して締めくくっている。

 日本ではとりわけ腰や腹(丹田)を重要視した言葉が多いとする。それは腰やハラを重要視していた事から来るのだろうと言っている。実際の武道や芸道に於いても腰ハラの需要性を強調しているらしい。
 腰やハラの構えは身体的状態感を生む。身体的状態感とはその構えによって生まれる気分や心の状態のことだ。そこが正しく決まっていれば、腰ハラはどっしりとし、力強さが漲る。と同時に上半身の力が抜ける「上虚下実」の状態となる。
 これはつまり、「腰ハラ文化」とは、「中心感覚」として自己の存在感を確かめる場所として機能し、拠り所となる感覚のことを言う。

 また一方で、「息の文化」は身体と精神、自己と他者、あるいは自己と世界を繋ぐ「距離感覚」(空間感覚)を養う点で重要としている。
 その場の空気と身体の状態感とは連関している。身体が息苦しいのに心理的に楽しんでいると言うことは考えられない。息は一種のセンサーなのである。
 逆に言えば、息を変えることで心身に変化を与えることも出来るのである。堪え忍ばなければならないときに、息を溜めることで、踏ん張りが聞くようになったりする。
 息とはコミュニケーションである。相手の呼吸を感じ取り、積極的受動性でもって相手と呼吸を合わせる。これが両者のやり取りや、自己の心身のやり取りを円滑にする。
 また、呼吸とはコツであって、世の中のあらゆる現象の押し引きも、この呼吸の感覚が重要となる。
 
 これらの感覚を昔の日本人が重要視していたことは「からだ言葉」にも表れている。からだの部位やからだを使った行為を言葉として表現しているのが「からだ言葉」だ。
「背負う」「腑に落ちる」「清濁併せ呑む」と言った言葉などに代表される。
 著者は「練る」「研ぐ」「絞る」「背負う」など、社会の変化につれて衰退傾向にあるからだ言葉を上げる。
 こういったからだ言葉はかつて、実際に自身の体で感じた感覚を言葉のニュアンスの一部として使っていた。ところが現在は身体文化が軽んじられ、からだの重要性が低下している。と言うことは、それに伴って「からだ言葉」に含まれる実際的なニュアンスも当然薄くなる。
 例えば「責任を背負う」と言うときの背負う。これはかつてのようにかなりの重量の荷物を長時間・長距離、背負い歩いていた時というのは、身体技術によって体で重さを受け止め、踏ん張って(あるいは安定した状態感で)歩いていたという実感があった。
「責任を背負う」という言葉を使うときの表現や決意にはそう言った培われた感覚があった。ただ辞書に載っている意味としての「背負う」とは違うわけである。

 からだ言葉が廃れつつある、あるいは、使われていてもそのニュアンスが薄まっていると言うことは、現在とかつての身体感覚に対する重要性の、一つの指標となる。

 こういった、「身体文化」は実際的な身体技術に基づいている。ただなんとなく身につくと言うものではない。実際に意識して行うことで身につけていく技術である。と著者は言う。
 そこで型の重要性が述べられる。
 型とは本質を凝縮したものである。自分にどの型が有効かを見極めることは重要であるが、型自体が自分を制限することはない。型を身につけることによって自然と高度にまとめられた基本を扱えるし、そこから応用も可能となる。
 型自体は反復することで習熟できるので、その型の意味を問う前に、まず身体で覚えてしまった方が早い。というより、強制的に覚えさせられる物である。型に付随する豊かな意味は後からわかっても問題ない。
 そういう点で型は教育的概念だという。
 型は基準線となる。型が設定されていなければ、前後の結果を比較できない。型を基にしてズレを修正するのである。
 そして幾つか設定したチェックポイントを基に、感覚を通して技は磨かれる。
 まずは頭で云々と言うことではなく、からだを通して得ていくのだ。

 日本文化は精神主義的であると言われるが、実はその精神性の基盤には具体的な身体技術があると著者は言う。むしろ身体性が重視された文化なのだ。
 しかし身体性と精神性は分けて考えられる物ではない。むしろそれは連関している。

 身体を通して感じとられる自己の感覚を「身体的自己」と呼ぶとする。
 自分の内側にある「自我」にばかり着目するのではなく、むしろ、そう言った「身体的自己」が自己の意識の基盤をなすのだと言う考えに立つとすれば、自己形成に対するイメージも異なってくる。
 つまり、実際の自分の身体に中心を見いだし、また世界を通して自分の身体で他者との距離を測るということを、実際の身体の感覚として感じられると言うことが大切なのだ。
 と同時に、自分の身体にだけ焦点を当てていても安定しない。自転車を漕ぐときも、自分の足下ではなく、視線を遠くへ飛ばすと安定する。だから意識を遠くへ放つことも必要になる。
 例えば東洋に於いては下方への方向性が重要な意義をもっている。リラックスして、地球の中心をイメージする。そこをもう一つの中心点とする。自分を頭から垂直に貫く中心軸が、地球の中央まで届いているイメージ(あるいは重力に身を任す感じ)だ。これは頭で考えるだけでなく、ぶら下げ運動などの実際の行為とセットにすると器として大きくなる。
 身体で感じると言うこと、そしてその感覚や、そこから生まれるイメージなどが、自分という存在感をはっきりとさせる。分裂病患者のように、自分の身体がよそよそしく感じられると言うこととは、大きく違ってくるはずだ、と主張する。

 著者は最後に身体文化を継承するためのカリキュラムを提案する。
 が、考え方としては柔軟だ。つまり、生活様式事態変わってしまったのだから、昔の(江戸時代の)感覚をそのまま取り戻そうなどとは考えていない。
 現在の生活様式の中で身体文化を再生していく発想が重要であるとしている。基本を抽出して、現代にアレンジしていくべきだろうという考えは、現実的だ。
 そして、昭和の子供達をモデルとすべきだとし、かつてを生き、自然に身体文化を身につけていた今の大人達に、その継承を促している。

 自分自身の充実や、世界との距離を測り、円滑なコミュニケーションをとること、それらの基盤には身体がある。そして、それらは貴重な文化である。現代はそれらがないがしろにされている。なので、それを現代に合う形で取り戻していこう、と言うのが著者の主張なのだと思う。

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 長くなってしまった。うまくまとまっているかはわからない。正直なところ、自分自身、今回本の内容の総決算というか、全体を通したまとめを把握するために書いていた部分も多い。
 著者の思惑と違って受け取ってしまっている部分もあるかもしれない。あくまで一読者のまとめとして受け取っていただきたい。

 個人的には先に挙げたように読書をする際の試みを幾つも取り入れた本として思い入れの深い作品になったが、それ以外にも実際に生活する中で、自分の身体に関して有用だった点でも評価したい作品だ。
 例えば足の踏ん張りに関して。最近は踵に重心が移っていて、それは良くないと言うような旨の引用があった。全ての動作の基本は直立能力という。武道の基本も、足の指をしっかり開いて地面を掴むとされている。
 著者の言う自然体とは足を均等に開き、膝を軽く曲げ、腰とハラをしっかりとさせておき、すっと背筋が伸びて肩の力が抜けた状態。という。
 自然体に於いて親指の付け根の膨らんだ部分に体重が乗っている。ここは踏ん張るときに力が入りやすい部分だという。
 こういったことを意識して日常生活の中で動作をこなすと確かに力が生まれるし、踏ん張れる。

 また、これは偶然のことなのだが。
 散歩(ウォーキング)や、バットを振ったり、球を投げたりという事をしている中で、自分独自に「中心軸の感覚」というものを得た。
 これは、頭頂部から棒を突っ込んで股間と肛門の間(会陰)から突き抜けていると言うイメージだ。
 以前、現マリナーズで、前ホークスの城島捕手も、バッティングの感覚として似たようなことを言っていた。独楽(コマ)をイメージしてい打っているという。つまり、自分の中心に棒が通っていて、コマのように棒に沿って、クルッと回転しながら打つ、と言う感覚だ。
 自分の場合はその中心軸を意識すると、顎が引かれ、背筋が伸びる。また、棒に沿っているという感覚があると、遠心力ではないが、何か抵抗を減らそうと、身体をスッとまとめようという感じになる。
 この中心軸の感覚は姿勢の在り方を正したり、動作をしっかりさせる際に有効だったりする。

 また最近、アトピー対策で健康に気を使って生活している。運動などでも身体を引き締めたりしているのだけど、身体がしっかりしてくると確かに、内側にも変化がある。身体が土台となりエネルギーが漲る。それが精神を向上させ、身体を動かす原動力ともなる。

 自分にとっては意義深い一冊となった。

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