遠くに進学した友人と会うときとか、或いはあの人は今どうしているだろうなどと想像するとき、時間の流れを感じる。
そういうことを朝方暗い時に目が覚めてふと考えてしまったりする。

学生時代っていうのは友人とほぼ毎日会っているから、変化というのに気付きにくい。
人間っていうのは要するに小さな変化には気付きにくい生き物だ。植物の成長が最たる例で、ある日突然、「あ、伸びた」と気付くのだ。家族に対しても同じで、歳をとったことに気付かずに、昔の親の写真とかを見て、「歳取ったなぁ」と実感したりする。

「考え」と言うのは結構日々めまぐるしく変わっているのかもしれない。
ただ、それがしっかりした自分の中の幹となるような「考え」であるかはわからない。
とある「考え」と、正反対のことを10分後には考えているかもしれない。そのどちらか、或いはまったく別の、三つ目の考えが自分の獲得する幹なのかは、ある時に決まる。

しかし思うのだけど、そういう風にして、色々人生を経験したり、知識を得たりして獲得した自分の「考え」を、たぶん意外と自分以外の人間も獲得している。
何十年も、何百年も、またその前、何千年前の人間が、自分と同じ考えを先に獲得していたかもしれないし、一方で自分より後に続く人間が獲得するかもしれない。

自分も中学卒業して高校に入るあたりで、なんか悟りのような「絶対的な考え」を手に入れたと思った時期がありました。
でも今思えば、それは多くの人間が通過するような事柄で、まるでそれを自分や、ごく一部の人間しかもっていないようなことだと思っていたのです。

よく「自分より一年先に生まれただけで何で敬語を使わなきゃいけないのか」とか、それに類似する考えを持った人もいます。
確かに能力の差などは、大人に近づくにつれ縮まります。加算される年齢一つの大きさも、小学生の時にはとても大きく感じられたものが、大人になるとそれほどの違いではなくなります。
ただまあ経験と言うものも大きくて、自分が得ていないものを先に生まれた人間はいち早く気付いている場合があります。

人間とは要するに繰り返しです。
人間は何十年と生きますが、死ぬ時にはそれらは全てリセットされる。
新しく生まれた命がまた、先人と似たような道を歩き、その考えを拾ったり、或いは見つけたりするのです。
その過程で人はまるで自分しか得ていないような、そういった錯覚を抱くときがあります。若いときに顕著です。
でもやっぱり、結構みんな同じ過程を歩んでいたりする。
だんだん年齢を重ねるごとにそれがわかってきて、若い人間に対して昔の自分を見るような目で相対するわけです。

まあ結局、先人がいくら経験をして得た考えも、後進の人間には実感がない。そして時代も違う。
だから、そういう経験をある程度見てきた人間(教師とか親とか)の言うことを耳にしないで、自分のやりたいように突っ走ったりする。
そして、自分もまた同じことを気付くわけです。
それの繰り返し。

人間はやっぱり、経験の生き物だなと思うのでした。
と言うか、俺は何を書きたかったんだろう。
まあいいや。

コメント