私小説

2004年1月26日

 男は夜の道を歩いていた。

 ビー玉が地に落ちるようなカチカチという音がアスファルトに弾けていた。
 図らずも小石を蹴飛ばしてしまったのだ。転がっていく勢いが次第に弱まって、自分の数歩先まで飛んで行って、そこで止まるのがわかった。
 こんな真夜中に住宅地を歩いている人はなかなかいない。時々近くの国道を通り過ぎていく車が騒音を立てるだけで、辺りは宇宙をイメージさせるほどの無音だった。その中で、磨り減らして歩く靴音と、厚着のジャケットが擦れる音が自分の耳に際立っていた。
 男は近くのコンビニまで買い物に行く最中だった。
 特別何か必要なものがあるというわけではなくて、ただ何かおいしいものを買い込んで食べたかっただけだ。
 チラチラ瞬きをするような街灯を左に折れて、薄暗いオレンジ色の光が目立つ道へ出た。もう少し歩けば目的地だ。燦々とした看板が人家越しに覗いている。
 歩きながら考えていた。自分は何がしたいのだろうか、と。
 実のところ、最近の生活には少しも満足していなかった。会社に勤めている分、ある程度安定したお金が懐に入ってきたし、趣味にお金を使えた。両親に少し高いものを買ってあげることも出来たし、友人との遊びにおける出費も困ることは少ない。
 まあ、それなりの生活だ。
 そして、それなりでしかない生活だった。
 いろいろと得るものはあるし、物欲も満たされるけど、発散されることのない鬱積が日に日に積もっていって、時には気がおかしくなりそうにもなった。
 自分にとって大切なものは何なのか、あのコンビニの蛍光灯のようにとても鮮明にわかっていた。
 わかっているのに。

 足を止めて扉を押した。
 暖気が充満する部屋の中に足を踏み入れる。
 雑誌を流し読みして飲料水を手に取り、スナック菓子や炭水化物に海苔を巻いたものを持ってレジの棚に置いた。
 自分の他にはひとり、店にいる。自分が店内に入る前からいたのだけど、店員と取引を済ませて店を出る頃には、その客はいなかった。変わりに、人数は二人に増えていたけど。
 何でも揃っているここは、現代の日本人にとってはもう無くてはならない場所と言っても過言ではないかもしれない。
 自分もまた、それを享受していた。

 外に出て、待ち伏せていた風に吹き付けられる。体を縮めながら空を見上げると、星はかき消されていて何も見えない。冬の夜空は傷の無い氷板のような美しさなのだが。
 しかたなく地面を見て、ジャガイモのようにごつごつと膨れたビニール袋をぶら下げながら、家に向かって歩き出した。
 光は遠のいて、やがて景観に夜本来の静けさが戻ってきた。
 言ってみれば、甘えなのかもしれない、と思っていた。
 あのコンビニエンスストアのように、豊かな今を捨てきれないのだ。今、そして直結した未来を。
 人生は一度きり、と言う言葉が胸を締め付ける。目指すものがあって、それしかないと思うならば、やるべきことはわかっているはずだ。
 でも。今この風が厳しくてジャケットを羽織っているのに、それを脱ぎ去ることが怖かった。これを脱ぎ捨てれば、やがては凍えて死んでしまうのではないか、と。
 ……走り出せば、温まるのだろうか。
 ふと思い、足を止めた。袋がさらさらと静かに音をたてている。
 まるで自分にその機会を与えるように、車の往来は止んでいた。
 しばらくじっとたたずんでいた。風が耳を切っていく。そうしていて、そして、やがてまた再び歩き出した。
 暗い通りへ入っていくと、来るときに蹴飛ばした石を偶然に見つけた。それをまた強く蹴り飛ばす。
「くそっ」
 静かに呟いて、袋を持つ手を引き締めた。

 男はチラチラ灯る蛍光灯の下を歩いて行き、やがて、闇に溶けた。


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