気持ちの共有、ということの難しさ。
2003年1月7日今日は始業式。
髪型を笑われました。
冬休みに入って少しした頃に髪を切ったんですよ。切りに行く前は、自分で部分的にすいたりしてしのいでたんですが、さすがに髪がかさばってきて、数ヶ月我慢してたんですけどついに切ったんです。
自分が髪を切ってもらう時は、具体的にこう切って、とは言いません。
「バッサリお願いします」
みたいに、ものすごく抽象的に注文します。後は床屋さん次第なわけです。そんな注文しかしないのに、本人の頭の中にはある程度イメージした髪型があって、切り終わった後とのギャップに凹んだりするんです。
なら言えよって話ですが、あれですよ。
恥ずかしいんです。
おいおい、テメーがそんなの注文する人間か、と。思うわけです。
で、今回の話しで何が言いたいかというと、気持ちの伝わり方、とでも言いましょうか。
人間は五感で自然や環境に触れます。
それによって、まずは頭の中に、直感的な思いが生まれますよね。まず言葉よりも先に、その思いが生まれるはずです。次の段階で、それを言葉に変換するわけです。
例えば、単純に、彼女(彼氏)からプレゼントを貰ったとしますね。そしたら嬉しさで気持ちが高揚します。自然と笑顔になって、「ありがとう」という言葉が口から出るのです。
しかし問題なのは、その「ありがとう」という部分です。
ここでは単純に、嬉しい気持ちから「ありがとう」という言葉を発した設定で考えていました。
しかし、もしその彼女(彼氏)があまりプレゼントをくれるような人ではなかった場合、嬉しさに+αして、「普段プレゼントをくれないのに」という意外性が加わるわけです。
だけど、発した「ありがとう」の言葉にはその違いが現れません。
同じ「ありがとう」。
しかし、こちら側が発信したニュアンスと、相手側が受け取るニュアンスは、必ずしも一致しません。
この例えは簡単な例ですが、日常ではもっと複雑な違いが生まれます。
例えばお笑い番組。お笑いコンビのネタで笑う2人の人間。
しかし、その二人は必ずしも、まったく同じ内容で笑っているのでしょうか?
同じネタでもその人によって微妙に受け取り方が違っていたら?
お笑いコンビは一つのネタを披露しているつもりでも、二通りの解釈が自然に、勝手に生まれているわけです。
お笑いコンビにしてみれば、自分の思ったことが必ずしも自分の思ったとおりに伝わらない。
それは要するに、人の感覚を言葉に変換して伝えるからこそ起こる誤解なのです。
デジカメも風景をそのまま切り取っているわけではなく、写った風景をいったん電気信号に変換してから、再び色の情報に変換しているのです(確かそうですよね?)。
だから、後から写真を見てみると、自分の目で見た風景と違って見えたりするのは、デジカメという有限の情報に置き換えたからです。
人がどれだけ言葉を並べて自分の気持ちを相手に伝えようとしても、結局本当の自分の気持ちは相手に理解されないのです。
ごく稀な例を除いては(これについては多くは語りません。だいたい想像つくだろうし)。
人は孤独だ、といいますが、細かなニュアンスまで伝わらない気持ちを考えると、確かにと納得してしまう部分もあります。
様々な、言葉にできないような思いを言葉で伝えようというのは、少し難しいのです。
自分の思っている気持ちを全部伝えようとすれば、それだけ字数も時間もかかりますしね。
というわけで、床屋で具体的に切って欲しい髪形を注文しなかった言い訳をグダグダと書いてみました(笑
いや、もちろんこれが全部とは言いませんよ。
だけど、自分の頭の中で浮かんでいるイメージの、微妙な情報全部を伝えるのは、やっぱちょっと無理かな、と。芸能人に例えるのも恥ずかしいし。
だけど、伝わらない思いを何とかして伝えよう・コミュニケーションしようとして生まれたのも、やっぱ言葉なんですよね。
結局、話さないと何も生まれないのか(笑
髪型を笑われました。
冬休みに入って少しした頃に髪を切ったんですよ。切りに行く前は、自分で部分的にすいたりしてしのいでたんですが、さすがに髪がかさばってきて、数ヶ月我慢してたんですけどついに切ったんです。
自分が髪を切ってもらう時は、具体的にこう切って、とは言いません。
「バッサリお願いします」
みたいに、ものすごく抽象的に注文します。後は床屋さん次第なわけです。そんな注文しかしないのに、本人の頭の中にはある程度イメージした髪型があって、切り終わった後とのギャップに凹んだりするんです。
なら言えよって話ですが、あれですよ。
恥ずかしいんです。
おいおい、テメーがそんなの注文する人間か、と。思うわけです。
で、今回の話しで何が言いたいかというと、気持ちの伝わり方、とでも言いましょうか。
人間は五感で自然や環境に触れます。
それによって、まずは頭の中に、直感的な思いが生まれますよね。まず言葉よりも先に、その思いが生まれるはずです。次の段階で、それを言葉に変換するわけです。
例えば、単純に、彼女(彼氏)からプレゼントを貰ったとしますね。そしたら嬉しさで気持ちが高揚します。自然と笑顔になって、「ありがとう」という言葉が口から出るのです。
しかし問題なのは、その「ありがとう」という部分です。
ここでは単純に、嬉しい気持ちから「ありがとう」という言葉を発した設定で考えていました。
しかし、もしその彼女(彼氏)があまりプレゼントをくれるような人ではなかった場合、嬉しさに+αして、「普段プレゼントをくれないのに」という意外性が加わるわけです。
だけど、発した「ありがとう」の言葉にはその違いが現れません。
同じ「ありがとう」。
しかし、こちら側が発信したニュアンスと、相手側が受け取るニュアンスは、必ずしも一致しません。
この例えは簡単な例ですが、日常ではもっと複雑な違いが生まれます。
例えばお笑い番組。お笑いコンビのネタで笑う2人の人間。
しかし、その二人は必ずしも、まったく同じ内容で笑っているのでしょうか?
同じネタでもその人によって微妙に受け取り方が違っていたら?
お笑いコンビは一つのネタを披露しているつもりでも、二通りの解釈が自然に、勝手に生まれているわけです。
お笑いコンビにしてみれば、自分の思ったことが必ずしも自分の思ったとおりに伝わらない。
それは要するに、人の感覚を言葉に変換して伝えるからこそ起こる誤解なのです。
デジカメも風景をそのまま切り取っているわけではなく、写った風景をいったん電気信号に変換してから、再び色の情報に変換しているのです(確かそうですよね?)。
だから、後から写真を見てみると、自分の目で見た風景と違って見えたりするのは、デジカメという有限の情報に置き換えたからです。
人がどれだけ言葉を並べて自分の気持ちを相手に伝えようとしても、結局本当の自分の気持ちは相手に理解されないのです。
ごく稀な例を除いては(これについては多くは語りません。だいたい想像つくだろうし)。
人は孤独だ、といいますが、細かなニュアンスまで伝わらない気持ちを考えると、確かにと納得してしまう部分もあります。
様々な、言葉にできないような思いを言葉で伝えようというのは、少し難しいのです。
自分の思っている気持ちを全部伝えようとすれば、それだけ字数も時間もかかりますしね。
というわけで、床屋で具体的に切って欲しい髪形を注文しなかった言い訳をグダグダと書いてみました(笑
いや、もちろんこれが全部とは言いませんよ。
だけど、自分の頭の中で浮かんでいるイメージの、微妙な情報全部を伝えるのは、やっぱちょっと無理かな、と。芸能人に例えるのも恥ずかしいし。
だけど、伝わらない思いを何とかして伝えよう・コミュニケーションしようとして生まれたのも、やっぱ言葉なんですよね。
結局、話さないと何も生まれないのか(笑
コメント